隻眼・隠密・大剣豪…柳生十兵衛の生涯と数々の「伝説」の真相をさぐる【前編】
13歳で将軍の小姓に
柳生十兵衛といえば、江戸前期に活躍した政治家でもあり剣豪でもあった人物です。
眼帯をつけているイメージで有名ですが、実際には隻眼ではなかったなど、数々の伝説に彩られた人でもあります。その足跡や伝説の真偽について、前後編に分けて探ってみましょう。
彼は慶長12(1607)年、柳生宗矩(むねのり)の長男として誕生しました。幼名は七郎で諱は三厳(みつよし)。よく知られた「十兵衛」は通称です。
父の柳生宗矩は、大和国柳生庄(奈良市柳生町)こと柳生藩の初代藩主で、徳川秀忠の兵法指南役としても知られていました。
息子の十兵衛は元和5(1619)年、13歳で徳川家光の小姓となります。
そして元和7(1621)年に宗矩が家光の兵法指南役に就任すると、父と共に家光の稽古の相手を務めるようになりました。
このように十兵衛は信頼も厚く、このまま順調に出世していくものと思われました。
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