なにげに?歴史を動かした男「新田義貞」鎌倉幕府を倒した隠れた功労者の足跡を追う:3ページ目
不遇の最期
同じ頃、京都の六波羅探題を攻め落とした尊氏には「従三位武蔵守鎮守府将軍」の地位を与えられましたが、義貞は「従四位上左兵衛佐上野守・越後守・播磨守」の地位に収まります。
鎌倉幕府が滅亡すると、すぐに後醍醐天皇は建武の新政を始めます。これは今までの武士の政治を否定するようなもので、多くの武士から反感を買いました。
そして尊氏は光明天皇を立てて「北朝」と称し、後醍醐天皇に真っ向から反発したのです。
後醍醐天皇も皇位は自らの「南朝」にあると譲らず、この南朝側の総大将に義貞を据え、尊氏を討伐するべく軍を鎌倉に送り込みました。
南朝では他にも楠木正成や北畠顕家などの力を持った武将がいましたが、北畠のほうが義貞よりも位が高く、総大将であるはずの義貞は簡単に命令を下すことができませんでした。
さらに北畠は義貞を北朝の尊氏に差し出そうとするなど、全く上手くいきません。
正成は湊川の戦いで、顕家も石津の戦いでそれぞれ討たれてしまいます。
1338年、義貞も藤島の戦いにて37歳の若さで戦死してしまいました。その戦歴と実績に反して、当時から冷遇され不遇の位置にいたことが分かります。