「鎌倉殿の13人」義時に第3の女”のえ”登場!第34回放送「理想の結婚」予習:2ページ目
『吾妻鏡』ではたった1行……謎の多い実朝の結婚
子尅。從五位下行左馬權助平朝臣政範卒〔年十六。于時在京〕。
※『吾妻鏡』元久元年(1204年)11月5日条
【意訳】真夜中ごろ、政範が京都で亡くなった。享年16歳。
鎌倉へ訃報が届いたのは11月13日、最愛の嫡男を喪った時政夫婦の悲しみは、察するに余りあります。
遠江左馬助。去五日於京都卒去之由。飛脚到着。是遠州當時寵物牧御方腹愛子也。爲御臺所御迎。去月上洛。去三日京着。自路次病惱。遂及大事。父母悲歎更無可比云々。
※『吾妻鏡』元久元年(1204年)11月13日条
政範の亡骸は11月6日に東山の辺りへ埋葬されたとのこと。そんな政範の死からさかのぼって11月4日、武蔵守であった(前司は元国司の意)平賀朝雅(演:山中崇)と畠山重保が京都で何か口論を起こしたとか。
故遠江左馬助僮僕等自京都歸着。去六日葬東山邊云々。又同四日。於武藏前司朝雅六角東洞院第。酒宴之間。亭主与畠山六郎有諍論之儀。然而會合之輩依宥之。無爲退散訖之由。今日風聞云々。
※『吾妻鏡』元久元年(1204年)11月20日条
口論の原因が何かは記録に残っていないものの、かねがね起きていた武蔵国における利害の対立や、また鎌倉政権のあり方(朝廷に恭順すべきか、ある程度距離をとるべきか等)について意見が衝突したものと考えられます。
これを恨んだりく(牧の方)が畠山討つべしと時政を唆し、ついには悲劇を迎えることとなるのですが、それはもう少し先の話し。
さて、そんなこんなで鎌倉へ御台所となる坊門姫をお迎えしたのが12月10日。それはもう華やかな嫁入りだったと思いきや……『吾妻鏡』にはたった一行。
御臺所御下着云々。
※『吾妻鏡』元久元年(1204年)12月10日条
【意訳】御台所が鎌倉へご到着遊ばされたそうな。
とあるだけ。婚礼については何も記録されていません。
「いやいや、そんな事はない。まずは旅の疲れをゆっくりとられてから、後日改めてご婚礼に臨まれたのだ……」と思いたいところですが、当月も翌月も、婚礼に関する記事が一つもないのです。
何だか政略結婚らしい闇の深さ……ちなみに実朝と坊門姫の夫婦仲はよかったと言いますが、そうなるとますますこのそっけない記述が気になるところ。
果たして大河ドラマではこの空白をどのように彩るのか、アレンジが楽しみですね。