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愉快だけど、キレると怖い?北条一族の魔手から家名を守り抜いた鎌倉武士・三浦家村【後編】

愉快だけど、キレると怖い?北条一族の魔手から家名を守り抜いた鎌倉武士・三浦家村【後編】:2ページ目

宝治合戦を生き延びて、三浦の家名を守り抜く

とまぁ何かと血の気の多い三浦一族。しかしやがて泰時が亡くなり、執権が北条経時から北条時頼に代替わりして間もない宝治元年(1247年)6月5日、三浦一族は北条時頼によって攻め滅ぼされてしまいました(宝治合戦)。

「最早これまで。武門の習いとて自分の死は覚悟していても、代々受け継いできた三浦の家名を絶やすのは残念でならぬ……」

そこで泰村は家村に対し、戦場からの脱出を命じます。

「嫌だ、それがしも最期まで戦う!何より一族と仲間を見捨てて逃げられるものか!」

「その気持ちは解るが、どうか一族と仲間のためと思って、ここは三浦の家名を守り抜いてほしい」

かくして家村は敵の包囲を掻いくぐって鎌倉を離脱。後に当局の追手から時間を稼ぐために、兄・光村は適当な首級を見繕ってその顔面を判別できないようズタズタに切り裁ちました。

続いて光村自身も「敵に死顔を見せたくないから」と、かねて美貌で知られたその顔をズタズタに切り裂いた挙げ句、自刃して果てます。

果たして6月6日に三浦一族の首級が首実検に出された時、光村と家村の首級については本人と断定できず、調査が続けられました。

「……これは駿河四郎(家村)ではない!」

首級を丹念に調査すること2日間。光村の方は何とか本人と特定できたものの、家村の首級についてはついに調べきれなかったのか(あるいは何か決め手が見つかったのか)、家村の首級は影武者と判断。6月22日の最終報告では「存亡不審(生死不明)」とされます。

「おのれ、してやられたか!」

今さら地団太を踏んだところで家村はとっくに鎌倉を離れ、三河国碧海郡重原荘(現:愛知県刈谷市)に潜伏してその命脈を後世に伝えたのでした。

終わりに

頼経将軍につかへ、宝治元年兄若狭守泰村が謀反にくみし、六月五日一族みな自殺のときにのぞみて、泰村名族の一時に亡むことを憂ひ、ひそかに家村に命じて後裔をたもつべしとなり。家村遺訓によりて其所を遁れさり、諸国を経歴してのち三河国に閑居す。

※『寛政重脩諸家譜』巻第五百二十一「平氏 良文流 三浦」より

【三浦氏略系図】
為通(三浦初代)-為継(ためつぐ)-義継(よしつぐ)-義明(よしあき)-義澄-義村-家村-義行(よしゆき)-行経(ゆきつね)-朝常(ともつね)-朝胤(ともたね)-正胤(まさたね)-重明(しげあき)-正明(まさあき)-重村(しげむら)-正村(まさむら)-正重(まさしげ)-正次(まさつぐ)-安次(あきつぐ)-明敬(あきひろ)-明喬(あきたか)-義理(よしさと)-明次(あきつぐ)-矩次(のりつぐ)-前次(ちかつぐ)-毗次(てるつぐ)-誠次(のぶつぐ)-峻次(としつぐ)-義次(よしつぐ)-朗次(あきつぐ)-弘次(ひろつぐ)-顕次(たかつぐ)……明治維新

かくして三河国へと移り住んだ家村がどのような最期を遂げたのか、それを伝える史料は残念ながら残っていないようです。

宝治の壊滅より数百年の歳月を経た戦国時代、三浦正重(まさしげ)が土井利昌(どい としまさ)の娘を娶り、やがて徳川家康(とくがわ いえやす)に仕えます。その子・三浦正次(まさつぐ)は徳川秀忠(ひでただ)に仕え、いっとき三浦から土井に苗字を改めましたが、やはり伝統ある家名を絶やしてはなるまいと再び三浦姓に戻しました。

正次は大名に昇格し、明治維新を迎えるまで三浦の家名を守り抜いたのです。家村の子孫たちは令和の現代も生きており、その誇りを受け継いでいます。

【完】

※参考文献:

  • 細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』朝日新書、2021年11月
  • 細川重男『宝治合戦 北条得宗家と三浦一族の最終戦争』朝日新書、2022年8月
  • 中塚栄次郎『寛政重脩諸家譜 第三輯』國民圖書、1923年2月
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』霞会館、1996年11月
 

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