手洗いをしっかりしよう!Japaaan

「明暦の大火」で多くの遊女が蒸し焼きに。全焼失した元吉原が進化した”新吉原”とは?

「明暦の大火」で多くの遊女が蒸し焼きに。全焼失した元吉原が進化した”新吉原”とは?

新吉原の規模とは

吉原は縦が京間で百三十五間、横が百八十間の長方形で、総坪数は二万七百六十七坪、東京ドームが約一万四千坪ですから、いかに広い敷地だったかが分かると思います。

周囲には忍返が植えられた黒板塀がめぐらされており、更にその外側にお歯黒どぶと呼ばれる堀がぐるりと取りかこんでいました。

遊女の逃亡を防ぐために設けたもので、堀の幅はおよそ二間(約三・六メートル)。遊女たちが使ったお歯黒の汁を捨てたところからその名がついたといいます。

遊女の逃走や恋路を阻んだ江戸吉原の「お歯黒どぶ」名前の由来や役割&構造とは?

江戸時代に、現代でいうソープランドのような役割を果たしていたのが、「遊郭」です。遊郭とは、幕府が許可を出した区画にて男性に性的なサービスをおこなう遊女屋が集まったスポットのこと。この記事では、…

吉原はどんな場所だったの?江戸時代の見取り図や浮世絵で吉原遊廓をご案内

江戸時代の幕府公認遊廓、吉原。ひとくちに吉原といっても、江戸時代初期に日本橋にあった元吉原、1657年の明暦の大火後に浅草の裏手に移動してからの新吉原の2つあり、落語などに出てくる「吉原」はたいてい新…

江戸の田舎だけど大繁栄!

まわりには吉原田圃と呼ばれた田んぼがひろびろと広がっていたということで、いわゆる江戸の都市の中心ではなかった事が分かります。

しかしそんな田舎の吉原が、「夜と昼朝とへ落る日千両」(夜は吉原、昼は芝居街、朝は日本橋の魚河岸に毎日千両ずつ金が落ちる)と詠まれるほどの繁栄を喫する地となるのです!

参考文献:永井義男「図説 吉原入門」

 

RELATED 関連する記事