比企能員、暗殺計画!北条時政の命により仁田忠常と天野遠景は…後編【鎌倉殿の13人】:2ページ目
尼御台は本当に「聞いた」のか?
比企一族の滅亡によって完全に孤立無援となってしまった頼家は、間もなく出家を迫られて鎌倉から追放されてしまいます。
ところで、鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』には「政子が頼家と能員の陰謀を障子の陰から聞いていた」と記述されていますが、本当でしょうか。
……追討之儀。且及許諾。而尼御臺所隔障子。潜令伺聞此密事給。爲被告申。以女房被奉尋遠州……
※『吾妻鏡』建仁3年(1203年)9月2日条
【意訳】(頼家は能員に対し、時政を)討つことを許諾された。政子は障子ごしに二人の密談を聞いてしまい、女官を派遣して時政(遠州)に伝えた。
しかし頼家と政子は同居しておらず、仮に政子が見舞いに来ていたとしたら、政子に聞かれかねない状況でその父・時政を討つよう密談などするでしょうか。
この現代ドラマ的に不自然な状況は『吾妻鏡』編者による曲筆(筆を曲げる、転じて事実と異なる脚色・捏造)と言われ、ドラマチックであるがゆえに民間に流布していた「物語」がそのまま記録された可能性も指摘されています。
では、政子がリークしたのでないとすれば誰が時政討伐の情報を伝えたのでしょうか。
一説として、頼家がかねて側近として重用していた中野五郎能成(なかの ごろうよしなり)ではないかと言われています。
先ほど、時政が能員を館へ誘い込む時に狙撃手として中野四郎(なかの しろう)を配置していました。この四郎は五郎と同族(兄弟?)と考えられ、後に五郎が頼家の側近として流罪の判決を下された際、特別に赦されているのです。
これは中野五郎が時政によって送り込まれたスパイ?であり、頼家の動向が中野五郎⇒中野四郎⇒時政と筒抜けであった可能性を示しているとか。
時政や能員らといった宿老たちに対抗するため、頼家が集めた6人の側近。
- 小笠原長経(おがさわら ながつね)
- 中野能成
- 比企宗朝(三郎。能員の子)
- 比企時員(四郎。能員の子)
- 細野四郎(ほその しろう)
- 和田朝盛(わだ とももり。和田義盛の孫)
しかしその多くが比企・北条そして三浦(和田)の息がかかっており、常に情報は筒抜けであったようです。
情報を制する者が鎌倉を制す……北条による粛清劇は、まだまだ続くのでした。