初期の吉原遊郭「元吉原」は今とは違う場所で、遊女は地味ファッションだった!?:2ページ目
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最初の遊女はとっても地味だった!?
元和3年(1617年)、幕府は「遊女屋の建物や遊女の着るものは華美でないものとすること」などを条件に、江戸初の遊廓「葭原(よしわら)」の設置をOKを出しました。
ファッションなどが華美にならないことを条件にしていたということは、江戸吉原遊女の「派手じゃないけれど見えないところにこっそりおしゃれを仕込む粋なファッション」の原点はここにあったのかもしれませんね。
場所が今の吉原とは全然違った!?
ちなみに元吉原のあった場所は今の吉原の区画とは全く違います。このとき幕府が甚右衛門らに提供した土地は、日本橋葺屋町続きの2丁(約220メートル)四方の区画で、海岸に近く、水草のヨシが茂り放題に茂り、当時の江戸全体からすれば僻地でした。
ここは現在の日本橋人形町2、3丁目と日本橋富沢町に跨がるあたりで、日本橋と言えば今では東京の中心地とも言えますが、この頃はまだ開発が不十分だったので僻地と言えたのですね。
ちなみに「吉原」の名は水草のヨシが茂りまくっていたことから来ています。そんな僻地にあっても男性客からのニーズは衰え知らず、どんどん発展していく元吉原に風紀上の危機感を覚えた幕府は、寛永17年(1640年)遊廓に対して夜間の営業を禁止したほどなのでした。
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