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恋心を隠し切れず源頼朝の女?に手を出して粛清された安田義資【鎌倉殿の13人】

恋心を隠し切れず源頼朝の女?に手を出して粛清された安田義資【鎌倉殿の13人】

父・義定も連帯責任で……

……今夕。越後守義資依女事梟首。所被仰付于加藤次景廉也。其父遠江守義定。就件縁坐蒙御氣色云々。是昨日御堂供養之間。義資投艶書於女房聴聞所訖。而顧後害。敢無披露之處。梶原源太左衛門尉景季妾〔号龍樹前〕語夫景季。又通父景時。々々言上將軍家。仍被糺明眞偽之時。女房等申詞苻号之間。如此云々。三年不窺東家之蝉髪者。一日豈遭白刃之梟首哉。
從五位下守越後守源朝臣義資〔年〕
遠江守義定一男
文治元年八月十六日任敍

※『吾妻鏡』建久4年(1193年)11月28日条

【意訳】この日の夜、女性トラブルにより義資がさらし首にされた。その役目を加藤次景廉がおおせつけられた。義資の父である遠江守義定も連帯責任で頼朝の怒りを買ったとか。
昨日、永福寺の御堂供養において義資が女房に艶書を投じたためという。彼女は後のトラブルを恐れて黙っていたが発覚。梶原景季の妾である龍樹前がこれを夫に話し、梶原景時を経由して頼朝に伝えられた。
取り調べの結果、女房たちの証言が一致したため有罪となったとか。三年も秘めていた彼女への恋心を、一日の過ちによって台無しにしてしまった。
従五位下守越後守源朝臣義資(年齢不詳)
遠江守義定の息子
文治元年(1185年)8月16日叙任される。

三年不窺東家之蝉髪者。一日豈遭白刃之梟首哉(さんねん、とうけのせんびんをうかがわずんば、いちじつあにはくじんのきょうしゅにあわんや)。

東家とは関東すなわち鎌倉殿、ここでは頼朝のこと。蝉髪(せんびん。蝉鬢とも)とは蝉の羽のように美しく透ける髪つまり女性を差します。

義資が三年間、恋焦がれ続けた女性はきっと、頼朝のお気に入りだったのでしょう。それに手を出そうとしたのが腹立たしくて、永福寺への不敬を名目に処刑。

まして義資はかねがね頼朝が警戒していた甲斐源氏の有力者ですから、勢力を削ぐのには絶好の大義名分と言えます。

「子の不始末は、親の責任である!」

連帯責任で義定は遠江の地頭職を没収され、翌建久5年(1194年)8月19日に謀叛の疑いで粛清されてしまいました。

終わりに

かくして粛清されてしまった安田義定・義資父子。かねがね警戒されている甲斐源氏の立場をちゃんと弁えていれば、こんなことには……と悔やまれてなりません。

しかし当人はリスクを承知で、決死の覚悟を決めて艶書を投げ込んだのでしょうから、岡目八目はこの辺にしておきましょう。

義資の子孫はやがて大江氏に仕えてその命脈を保ち、安芸国(現:広島県西部)や若狭国(福井県西部)へ移住してそれぞれ活躍したということです。

※参考文献:

  • 柴辻俊六『甲斐 武田一族』新人物往来社、2005年10月
  • 歴史群像編集部『決定版 図説・源平合戦人物伝』学研プラス、2011年11月
 

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