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文武両道に優れた徳川家康の寵臣・石川丈山は朝廷へのスパイ役だったのか?

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丈山が隠棲した凹凸窠(詩仙堂)とは

石川丈山が隠棲した山荘・凹凸窠跡の寺院で、1階の詩仙の間・至楽巣・躍淵軒の3室と2階の嘯月楼からなります。

作庭の名手丈山の手による庭は、白砂に躑躅をあしらった四季折々に美しい唐様庭園でも有名。詩仙の間に座し、庭を眺めるのもよし、庭園に降りてゆっくり散策するのもおすすめです。

丈山はなぜ詩仙堂を構えたのか

江戸初期を代表する文化人の丈山だが、実は昔から幕府のスパイ説が囁かれていました。

この時期、幕府と朝廷は大変な緊張関係にあったのです。2代将軍徳川秀忠は、『禁中並公家諸法度』を制定し、朝廷を締め付け、紫衣事件などで圧迫しました。

これに対し、後水尾天皇は幕府に諮ることなく1629(寛永6)年に興子内親王に譲位します。興子内親王の母は秀忠の娘和子が入内して生んだ内親王なので、徳川の血を引く天皇が誕生したかに見えますが、実はそこに後水尾天皇の意図があったのです。

それは、女帝は生涯独身であるのが習わしであり、徳川の血が代々皇統に流れるのを防いだことになるのです。この後水尾天皇の譲位に秀忠は激怒したと伝わります。

詩仙堂の位置は、後水尾天皇が造った修学院離宮がすぐ北にあり、京都所司代の板倉勝宗もたびたび詩仙堂を訪れています。

徳川幕府の創設期であり、朝廷との緊張関係が続く折から、丈山は京都の見張り役、つまり幕府側のスパイをしていたのではないかといわれているのです。物見櫓のような小楼・嘯月楼からは洛中一帯を見下ろせるため、この櫓をして狼煙台とする説もあります。

後水尾天皇(譲位して上皇)ら朝廷側も丈山を招こうとした事実もありました。いずれにせよ、武将としても文化人としてもずば抜けた才能を有していた丈山は、隠棲した後も幕府・朝廷双方に必要とされた人物であったのです。

今回は、石川丈山についてご紹介しました。京都に行く機会がありましたらぜひ詩仙堂を訪ねてください。そこには今も丈山の息吹が感じられます。

※参考文献
『京都ぶらり歴史探訪ガイド~今昔ウォーキング~』 メイツユニバーサルコンテンツ 2022年2月25日発刊 京あゆみ研究会著(高野晃彰・執筆編集)

 

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