本能寺の変に「黒幕」はいたのか?たぶん明智光秀の単独犯行だった「四国政策転換説」を紹介【後編】:3ページ目
四国征伐の大将になれず……
光秀は信長の信頼を取り戻すためには、何としてでも四国征伐の指揮官を拝命し、長宗我部を織田の軍門に下すよりありません。
が、天正10年(1582年)5月。信長は三男の信孝を四国征伐の総大将、丹羽長秀を副将としました。
信長は光秀と長宗我部の関係を懸念しており、総大将にすると手を抜くリスクが高いと判断したのでしょう。
四国征伐から外されてしまった光秀は、中国方面で戦っている羽柴秀吉の援軍として向かうことになります。
それにしても、信頼を回復したいなら秀吉の下で真面目に努めればよかろうに、なぜ謀叛を早まってしまったのでしょうか。
『当代記』によると光秀は当年67歳(諸説あり)。羽柴秀吉46歳、丹羽長秀48歳、滝川一益58歳、柴田勝家56~61歳に比べて織田家中でもかなりの高齢。
さる天正8年(1580年)には、老臣の佐久間信盛(さくま のぶもり)や林秀貞(はやし ひでさだ)らが相次いで追放されています。信長の信任を失った光秀が、役立たずとして粛清されてしまうことを恐れた可能性も十分にあり得るでしょう。
もはや織田家中に希望がなくなった(と思い込んだ)光秀が、信長の油断によって生じた千載一遇の好機を逃さず謀叛に踏み切った……とする四国政策転換説。
戦前から徳富蘇峰(とくとみ そほう)らが指摘している説でしたが、近年では有力視が強まっているとか。
今も決着を見ていない「本能寺の変に黒幕はいるのか問題」。今後の研究による解明が俟たれますね!
【完】
※参考文献:
- 呉座勇一『陰謀の日本中世史』角川新書、2018年3月