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本能寺の変に「黒幕」はいたのか?たぶん明智光秀の単独犯行だった「四国政策転換説」を紹介【後編】

本能寺の変に「黒幕」はいたのか?たぶん明智光秀の単独犯行だった「四国政策転換説」を紹介【後編】:2ページ目

では、なぜ光秀は信長を討ったのか?

本能寺の変に「黒幕」がいないとしたら、光秀は自らの意志で信長を討ったことになります。それでは、なぜ光秀は信長暗殺を考えるようになったのでしょうか。

その原因として、近年では信長の対四国政策が影響しているという説が唱えられています。

時は天正3年(1575年)、信長は土佐国(現:高知県)の長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)に対して「四国を手柄次第に切り取ることを認める」旨を伝えました。

当時、讃岐国(現:香川県)と阿波国(現:徳島県)は三好(みよし)一族が占拠しており、これを本土と挟み撃ちにする意図があります。よくある遠交近攻(えんこうきんこう。遠くの国と連携して近くの国を攻める)の典型例ですね。

しかし三好康長(やすなが)が織田に寝返ると信長はこれを受け入れ、逆に勢力を伸ばす元親を警戒するようになりました。

天正9年(1581年)に入ると信長の支援を得た康長は四国で勢力を伸ばし、四国北東部を掌握。それで信長は元親に対して「領有は土佐と南阿波のみとし、それ以外の伊予国(現:愛媛県)などは返還するよう」命じます。

前には「切り取り放題」と言っていたくせに、いざ都合が悪くなって返せとは理不尽な話。しかも信長の支援によって得たならともかく、完全に実力で勝ち取った所領を手放す筋合いはありません。

もちろん元親は信長の命令を突っぱねます。織田・長宗我部の対立を懸念したのが、これまで対四国の交渉窓口となってきた光秀です。

何とか元親を説得しようと努めますが、まったく応じてくれません。そんな中、信長は天正10年(1582年)2月、四国の分割計画を示しました。

讃岐国:織田信孝(のぶたか。信長の三男、信長の命令により康長に養子入り)
阿波国:三好康長
伊予国:未定
土佐国:未定

これは暗に長宗我部の所領(本拠地である土佐、新たに奪った伊予)を全没収することを意味しています。もう長宗我部との交渉役は必要ない……要するに光秀はお役御免となってしまいました。

3ページ目 四国征伐の大将になれず……

 

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