【鎌倉殿の13人】まもなく描かれる?謎に包まれた源頼朝の死。実は怨霊に祟られた説も:3ページ目
終わりに
……同冬大将殿相模河ノ橋供養ニ出テ還ラせ給ヒケルニ八的カ原ト云處ニテ亡サレシ源氏義廣義経行家已下ノ人々ノ怨霊現レ将軍ニ目ヲ見合ケリ是ヲ打過給ヒケルニ稲村崎ニテ海上ニ十歳計ナル童子ノ現シ給ヒテ汝ヲ此程随分ウラミツルニテコソ見付タレ我ヲハ誰トカ見ル西海ニテ沈し安徳天皇也トテ失給ヌ其後鎌倉ヘ入給ヒテ則病著給ヒしカ明年正月正治元年十三日終ニ五十三ニソ薨し玉フ是ヲ老死ト云ヘカラス偏ニ平家其外多クノ人ヲ失ヒ或親族等ヲ亡セシ霊怨因果歴然ノ責也……
※『保暦間記』より
かくして世を去った頼朝。しかし『保暦間記』はこれを「寿命ではない」と追及します。
非業の死は平家をはじめ多くの人々を殺し、挙げ句の果てには親族までも滅ぼした怨霊の祟り。まさしく因果応報に他なりません。
もし頼朝の滅ぼしたのが叔父の義広や行家、そして平家だけだったら、ここまで祟られはしなかったのではないでしょうか。
平家討伐に大功を立てた(にもかかわらず)義経を殺したために、判官贔屓の心情から「頼朝に一矢報いてやりたい」と願う人々によってこうした伝承が生まれたのでしょう。
頼朝の死については他にも色々説があるので、また調べて紹介したいと思います。
※参考文献: