【鎌倉殿の13人】まもなく描かれる?謎に包まれた源頼朝の死。実は怨霊に祟られた説も:2ページ目
橋供養の帰り道
時は建久9年(1198年)、頼朝は相模川の橋供養に参列しました。橋供養とは、橋が架かったことを祝い、安全を祈願する法要です。
相模川は神奈川県で最大の河川であり、ここが容易に通れるようになると人々の生活はとても楽になります。
「あぁ、疲れた疲れた……」
供養もつつがなく終わり、鎌倉へ帰ろうと家路をたどる頼朝。すると八的ヶ原(やまとがはら。神奈川県藤沢市あたり)に亡霊が出現しました。
「あれは……九郎?三郎叔父に、あぁ……十郎叔父までいやがる」
そこには奥州で自刃に追い込んだ弟の源義経(よしつね)、かつて叛旗をひるがえした叔父の源義広(よしひろ)、そして「獅子身中の虫(寄生虫)」と忌み嫌った源行家(ゆきいえ)らが勢ぞろい。
※木曽義仲(きそ よしなか)とその嫡男・源義高(よしたか)がいなかったのは、彼らはもう怨んでいなかったのでしょうか(キャラクター的に、そういう怨みを引きずらなそうなのと、恐らく人々が覚えていなかったのかも知れません)。
「ちくしょう、ガンつけて来やがる……えぇい無視だ無視!」
とは言え、こういうのはナメられたら負けですから、頼朝もガンを決めて睨みつけます。
「あの、御所(頼朝)様?」
他の御家人たちには見えていないのか、いきなり虚空をこれでもかと睨みつけ出す頼朝は、さぞ不気味に思ったことでしょう。
さて。ようやく鎌倉へ戻ってきたと思ったら、今度は稲村ヶ崎の海上に10歳ばかりの童子が立っていました。もちろん亡霊です。
「やっと見つけた……そなたを随分怨み続けておったぞ……朕(ちん。天皇陛下の一人称)が誰と思う?そうじゃ、かつて壇ノ浦に沈んだ安徳天皇(あんとくてんのう)じゃ!」
壇ノ浦で平家が滅んでから10年以上。だいたい鎌倉にいた頼朝を捜すのに、どこを探していたのかというツッコミはさておき、このあと間もなく頼朝は病床に臥せってしまいます。
そして年が明けて建久10年(1199年)1月13日、頼朝は53歳で薨去(こうきょ。貴人がなくなること)したのでした。