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鎌倉が大炎上した建久2年の大火災、なんと源頼朝が真犯人との説を紹介【鎌倉殿の13人】

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さすがに無理があるのでは……?

しかし、紹介しておいて何ですが、その仮説はさすがに無理があるのではないでしょうか。

『吾妻鏡』にある通り当日は南風が強く(現代でも鎌倉はたいてい南から強く海風が吹く)ため、火など放とうものならたちまち燃え広がります。

焼き畑農業みたいに火勢を制御できず、どこまでも燃え広がってしまうリスクを考えると、軽々にできることではありません。

じっさい源氏の氏神である鶴岡八幡宮まで焼けてしまっており、そんな罰当たりなことを意図的に行うとは考えにくいものです。

数百年後の戦国時代、鎌倉へ攻め込んで来た房総半島の里見一族(源氏)が失火によって鶴岡八幡宮を焼いてしまった際「氏神様に畏れ多いことを……」と、兵を引き上げてしまうほどでした。

源氏の棟梁を自任する頼朝が、万に一つも八幡様を焼いてしまっては、子々孫々まで祟られてしまいます(直系子孫は絶えましたが)。

あるいは北条義時・村上基国・比企能員・比企朝宗・佐々木盛綱・一品房昌寛・仁田忠常・工藤行光・佐貫広剛のうち誰かを焼き殺すつもりで火を放ったのが、予想以上に燃え広がり……というのも、ちょっと危険すぎますね。

この火災をきっかけとして八幡様の社殿を山の上に遷座し、現代の石段スタイルになったのでした。

ところで、不吉な予言をした広田次郎邦房がどうなったのか、その後がとても気になりますね(むっちゃ放火の疑いをかけられそうで……)。

終わりに

さて、御所を焼け出されてしまった頼朝。藤九郎盛長の家に避難したきり、7月28日に御所が再建されるまでの5カ月弱、ずっと滞在していたそうです。

「いやぁ~御所が焼けちまったなぁ。藤九郎、泊めてくれよ」

「えぇ、もちろんいいですとも」

ちょっと上がり込んで5カ月弱。泊まる頼朝も頼朝ですが、泊める藤九郎も大したものです。

お世話するのも大変だったでしょうが、きっと流人時代を思い出して、満更でもなかったことでしょう。

ところで、館が焼けてしまった北条義時たちはどのように過ごしていたのでしょうか。『吾妻鏡』にはそこまで書いていないようですが、きっとそれぞれ助け合っていたのだと思います。

あれから数百年が経っても、相変わらず箱庭の中でワイワイひしめきながら人々が暮らす鎌倉の街。

狭くて不便なことも多いですが、それもまた古都の味わい。お立ち寄りの際は、そんなところも楽しんでいただければと思います。

※参考文献:

  • 政治経済史学会 編『政治経済史学』日本政治経済史学研究所、2003年2月
    (石井清文「建久二年三月鎌倉大火と源頼朝」)
  • 細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地・鎌倉』朝日新書、2021年11月
 

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