鎌倉が大炎上した建久2年の大火災、なんと源頼朝が真犯人との説を紹介【鎌倉殿の13人】
鎌倉の街を歩いていると、路地が狭くて車両などとのすれ違いでイライラしちゃいますよね。
「もっと道路を広くできないの!?」
そんなご意見を耳にすることもありますが、鎌倉は先の大東亜戦争(太平洋戦争)において大規模な爆撃を受けていない(機銃掃射など、空襲自体はありました)関係で、なかなか再開発が進まなかったと言われています。
爆撃なんて受けないに越したことはないものの、ゴチャゴチャしていた都市が焼け野原にリセットされたことで、皮肉にも再開発のキッカケとなりました。
既に人が住んでいると、立ち退き交渉だの賠償だの色々めんどくさい……だったら焼き払ってしまえばいいじゃないか!
……と思った源頼朝が、自ら鎌倉を火の海にした?……そんな説があるのだとか。果たして、本当なんでしょうか。『吾妻鏡』を読んでみましょう。
「明日、鎌倉は……」不吉な予言
……有廣田次郎邦房者。語傍輩云。明日鎌倉大火災出來。若宮幕府殆不可免其難云々。是大和守維業男也。然者。継家業者。雖有儒道之号。難得天眼歟之由。人咲之云々。
※『吾妻鏡』建久2年(1191年)3月3日条
【意訳】広田次郎邦房(ひろた じろうくにふさ)という者が、近くの同僚たちに「明日、鎌倉は大炎上する。八幡宮も御所も被害を免れまい」と予言した。
この者は広田大和守維業(やまとのかみ これなり)の息子である。家業を継いで儒学を修めているが、未来を見通す目を持ってはいまい。みんなバカにして笑ったとのこと。
……しかし予言は的中し、その晩に火災は発生します。
建久二年三月小四日壬子。陰。南風烈。丑剋小町大路邊失火。江間殿。相摸守。村上判官代。比企右衛門尉。同藤内。佐々木三郎。昌寛法橋。新田四郎。工藤小次郎。佐貫四郎已下人屋數十宇燒亡。餘炎如飛而移于鶴岡馬塲本之塔婆。此間幕府同災。則亦若宮神殿廻廊經所等悉以化灰燼。供僧宿房等少々同不遁此災云々。凡邦房之言如指掌歟。寅剋。入御藤九郎盛長甘縄宅。依炎上事也。
※『吾妻鏡』建久2年(1191年)3月4日条
【意訳】曇り、激しい南風が吹いていた。午前2時ごろに小町大路あたりで出火。北条義時・村上基国・比企能員・比企朝宗・佐々木盛綱・一品房昌寛・仁田忠常・工藤行光・佐貫広剛はじめ民家数十軒が全焼。
さらに延焼して鶴岡八幡宮の五重塔や社殿、回廊などもことごとく焼け落ち、頼朝の御所も焼失。昨晩に広田邦房が予言した通りとなった。
午前4時ごろになって、頼朝は甘縄にある安達盛長の家へ避難したのであった。
……小町大路とは現代の小町通りとは異なって若宮大路の東側を並走。そのまま材木座海岸を経て三浦方面へと伸びていました。
民家数十軒を焼いて八幡宮へ延焼したとのことですから、当時の邸宅がどのように建っていたかにもよりますが、だいたい日蓮辻説法跡(小町二丁目)あたりが出火点でしょうか。
この火災が予言通りに起こったことから「実は都市整備を計画した頼朝かその重臣たちが、邪魔な家屋などを焼き払わせたのでは」という説(石井清文「建久二年三月鎌倉大火と源頼朝」)が提唱されたのです。