鉄砲 VS 弓、達人同士の一騎打ちの行方は?戦国時代、織田信長に仕えた砲術家・橋本一巴の逸話:3ページ目
終わりに
一、七月十二日午の剋、辰巳へ向つて切りかゝり、数剋相戦ひ追崩し、爰に浅野と云ふ村に、林弥七郎と申す者、隠れなき弓達者の仁体なり。弓を持ち罷り退き候ところへ、橋本一巴、鉄炮の名仁、渡し合ひ、連々の知音たるに依つて、林弥七郎、一巴に詞むかけ候。「たすけまじき」と、申され候。「心得候」と申し候て、あいかの四寸計りこれある根をしすけたる矢をはめて、立ちかへり候て、脇の下へふかぶかと射立て候。もとより一巴もニツ玉をこみ入れたるつゝをさしあてて、はなし候へぱ、倒れ臥しけり。然るところを、信長の御小姓衆・佐脇藤八、走り懸かり、林が頸をうたんとするところを、居ながら大刀を抜き持ち、佐脇藤八が左の肘を小手くはへに打ち落す。かゝり向つて、終に頸を取る。林弥七郎、弓と太刀との働き比類なき仕立なり。
さて、其の日、清洲へ御人数打ち納れられ、翌日、頸御実検。究竟の侍頸かず千弐百五十余りあり。※『信長公記』浮野合戦の事
この一騎討ちで一巴が死んだか否かは明記されていないものの、仮に一命をとりとめたにせよ後遺症は残ったのか、歴史の表舞台からは姿を消します。
『信長公記』の原文(戦さの現場)では「助けないぞ(たすけまじき)」「心得た(心得候)」だけのやりとりであり、たった一言に込められた意味を読み取るとは、達人同士通じるものがあったのかも知れませんね。
かくして一巴が斃れた後もその砲術は息子や織田家の誇る鉄砲隊に受け継がれ、数々の活躍を重ねていくのですが、それらのエピソードもまた紹介したいと思います。
※参考文献:
- 宇田川武久『鉄砲と戦国合戦』吉川弘文館、2002年11月
- 和田裕弘『信長公記 戦国覇者の一級史料』中央公論新社、2018年8月