鉄砲 VS 弓、達人同士の一騎打ちの行方は?戦国時代、織田信長に仕えた砲術家・橋本一巴の逸話:2ページ目
鉄炮と弓、達人同士の一騎討ち
そんな橋本一巴は永禄元年(1558年)、信長に従って織田一族(従兄弟)の織田伊勢守信賢(いせのかみ のぶかた)と対決。後世に言う浮野の合戦に臨みました。
戦闘は次第に信長の優勢となり、7月12日の正午ごろ、一巴は退く敵の追撃中に弓の名手である林弥七郎(はやし やしちろう)を発見します。
「そこにおわすは、林殿とお見受けした。我こそは橋本伊賀守、尋常に勝負いたせ!」
弥七郎は足を止め、背を向けたまま答えました。
「よかろう。相手にとって不足はない……が、そなたほどの達人なれば、こちらも手加減はできぬぞ。よいか」
「心得た……いつでも参られよ」
「ならば!」
次の瞬間、弥七郎は四寸ばかり(約12センチ)もの大きな矢根(やのね。鏃)をつけた矢をつがえ、振り向きざまに射放ちます。
同じく一巴も既に装填しておいた二つ弾(ふたつだま。一度に二発の弾を装填すること)を放ちました。
「「ぐ……っ!」」
弥七郎の矢は一巴の脇腹をえぐり、一巴の弾は弥七郎に命中。両者とも相討ちとなります。
「橋本殿、助太刀致すぞ!」
そこへやって来た信長の小姓である佐脇藤八(さわき とうはち)が弥七郎の首級を奪おうと近づいたところ、弥七郎は倒れたまま応戦。
抜刀するや藤八の左ひじを籠手もろとも斬り落としたものの、藤八は怯むことなく弥七郎の首級を上げたのでした。
「林弥七郎、この佐脇藤八が討ちとったり!」
この日は信長方の大勝利、清州城へと凱旋した信長は翌日に首実検を行ったところ、1,250余もの首級が集まったということです。