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語り継がれる奇襲「鵯越の逆落とし」を行ったのは源義経ではなかった?史実とは違う、一ノ谷の戦い

語り継がれる奇襲「鵯越の逆落とし」を行ったのは源義経ではなかった?史実とは違う、一ノ谷の戦い

なぜならば、鵯越の場所が、現在明らかになっている平家の陣から8キロメートルも離れており、そう考えたときにこの距離感ではとても奇襲になりそうにありません。

しかも、九条兼実(くじうかねざね)が記した日記『玉葉』で述べられている合戦の様子から、奇襲したのは義経本人ではなく、別動隊の多田行綱(ただゆきつな)だったのではないかという説もあります。

多田行綱は、摂津国多田荘(兵庫県川西市など)を本拠としていた源氏の武将の一人です。以上のように考えると、義経の「鵯越の逆落とし」のエピソードは、後世に脚色されたかもしれないのです。

尤もこうした奇襲作戦など行われなくても、源氏は平家に十分勝てた可能性があります。なぜなら、源氏が攻め入る前日に、当時平家と対立していた後白河法皇(ごしらかわほうおう)が、

「和平交渉尾を行うための使者を派遣するのでそれまで待つように。同様の趣旨を源氏側にも伝えてある」

といった内容の書状を平家の陣に届けていたのでした。

この書状を受け取った平家の陣のものたちは、ひとまず安心し、警戒を解いていたところ、源氏が攻め込んできたというわけです。

この話が事実なら、源氏の勝利は義経の奇襲ではなく、後白河法皇のおかげということになります。

参考

清水由美子 『『平家物語』における多田行綱 ~「裏切り者」と言われた男の素顔~』「歴史叙述と文学」(2016 国文学資料館)

 

 

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