戦争の被害者。第二次世界大戦後の米兵相手の娼婦「パンパン」はなぜ生まれた?:2ページ目
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インタビューに残る悲痛な叫び
彼女たちは「パン助」などとも呼ばれ軽蔑されましたが、「ラクチョウのお時」という名で呼ばれた有名なパンパンが、 ラジオ番組『街頭録音』で取り上げられた際にインタビューで次のように述べ、大きな反響を呼びました。
「 そりゃ、パン助は悪いわ、だけど戦災で身寄りもなく職もない私たちはどうして生きていけばいいの、好きでこんな商売をしている人なんて何人もいないの、それなのに苦労して堅気になって職を見つけたって、世間の人はあいつはパン助だって指さすじゃないの。
私は今までに何人も、ここの娘を堅気にして送り出してやったわよ。それがみんな(涙声)いじめられ追い立てられて、またこのガード下に戻ってくるじゃないの。世間なんていいかげん、私たちを馬鹿にしてるわ」
差別が社会復帰を妨げた
この時お時さんは有楽町で約500人のパンパンを率いるやり手の立場をつとめていたため、女性たちの母親代わりのような存在でした。
お時さんのインタビューからは一度パンパンになった女性は激しい差別を受け、なかなか他の職に就く事が難しかったという辛い現実が垣間見えます。
戦前は学校に通ったり大切な家族が居たり、普通に生活していた彼女たちが、戦争のせいで社会的に孤立してしまったという悲しい歴史の一つです。
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