人は見た目が9割だけど…醜い容姿コンプレックスを克服した平安皇族・忠貞王のエピソード:2ページ目
人づくりこそ、国づくり…教育と地方行政に心血を注ぐ
そんな努力の甲斐あって貞観3年(861年)3月8日には大学頭(だいがくのかみ。官僚を育成する大学寮の責任者)に任じられ、天下公益に資する人材育成に心血を注ぎます。
その後、実務能力にも優れていた忠貞王は地方官(国司)を歴任。貞観6年(864年)には摂津守、同13年(871年)には大和守、同14年(872年)には播磨守、同19年(877年)には河内守、元慶2年(878年)には再び大和守、同5年(881年)には美濃権守、同6年(882年)には近江守を兼任……。
元慶8年(884年)に65歳で亡くなるまで(途中で中央に戻ってくることもあるものの)各地を転々としていますが、これはどうしてでしょうか。
国司としての忠貞王は「威惠兼帶、民不敢敗(威と恵を兼ねて帯び、民はあえて敗らず)」と評価されている通り、硬軟を使い分けた政治で民の心をつかんだと言います。
恐らくは何かトラブルの大きなor頻発する地方へと派遣され、あらかた解決するとまた別の国へ……と渡り歩いていたのでしょう。
顔の醜さで傷ついていた忠貞王は人の心を慮ることに長け、また民衆たちもその醜さに親しみを感じていたのかも知れません。
偉ぶることなく、親身になって問題を解決してくれる有能な国司様……忠貞王が次の任国へ発つ時、人々はさぞや別れを惜しんだことでしょう。
終わりに
以上、忠貞王の生涯を駆け足でたどってきました。
生まれつきの顔はどうにもならないが、内面は努力しだいでいくらでも磨ける……ならば努力を重ねて、少しでも人々に喜ばれるようになろう。
そんな忠貞王の心意気はまさに公僕の鑑(かがみ)であり、また社会を支える人民(ひとたみ)の鑑とも言えるでしょう。
とかく我が身を飾り立て、私腹を肥やすことこそよしとされる昨今において、忠貞王の生き方を少しでも見習いたいものですね。
※参考文献:
- 黒坂勝美 編『新訂増補 国史大系 公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1974年8月
- 佐藤謙三ら訳『読み下し 日本三代実録 上巻』戎光祥出版、2009年10月