それ、火を消すより大事なの?平安京の火災と貴族たちの反応にびっくり
火事と喧嘩は江戸の華……なんて言いますが、かつては平安京も多く火災に見舞われました。
「貴族たちが住む寝殿造は築地塀(ついじべい)に囲まれ、庭に池もある(防火用水を確保している)から火災に強かった」
なんて言っているのを聞いたことがあるものの、とんでもありません。
寝殿造は京都盆地の暑さと湿気をしのぐため、風通しをよくしようと床下が高く、しかも天井も高く作られていました。通気性の高さは炎の燃焼速度を高めます。
また屋根材は難燃性の瓦が普及しておらず、燃えやすい檜皮葺(ひわだぶき)が主流でしたから、よそから火の粉が飛んで来れば容易に延焼しました。
天井が高いため初期消火が(特に女性や高齢者には)難しく、またどこのご家庭にも池≒潤沢な防火用水があった訳でもありません。
こうした事情で、京都洛中では江戸に負けず劣らず大規模火災が発生しました。今回はそんな中から、いくつかのエピソードを紹介したいと思います。
相次ぐ火事場泥棒
時は長和3年(1014年)2月9日、登華殿(とうかでん。女御らの住居)からの出火が原因で内裏が焼亡してしまいました。
翌2月10日になって焼け跡を調査させたところ、崩れ落ちた左衛門陣舎の下敷きになって1名が焼死、1名が足を切断する重傷を負ったということです。
関係者に事情を訊ねると、左衛門陣舎が延焼した際「このまますべて焼け落ちたらもったいない、せめて柱だけでも回収・再利用しよう」と雑人(ぞうにん。召使い)たちが集まって柱を曳き倒しました。
それで建物が倒れ、先の被害を出したのですが、火事場でモノを惜しんで命を落としてはかえって損というものですね。
さて、すっかり火事も収まりました。そこで何か金目のモノは焼け残っていないかと探させたところ、丁子(ちょうじ。クローブ)や紺青(こんじょう。顔料)、麝香(じゃこう。香料)などが発見されます。
貴重品だから日ごろから防火対策がしてあったのか、あるいは咄嗟の判断で土に埋めて焼亡を免れたのかも知れませんね。
しかし、数えてみると麝香が20臍(へそ)ほど足りません。ほかのものが無事だったことを考えると、火事場泥棒と考えられます。
捜査させたところ、2月18日に小舎人秋成(こどねりの あきなり。姓不詳)が盗んだことが発覚。6臍は東宮(春宮。皇太子の御所)に埋め、残りは近江国(現:滋賀県)へ持ち出したとの事でした。
恐らく埋めた分はほとぼりがさめた頃に自分で換金し、持ち出した分は親族への仕送りだったのでしょう。火事場のどさくさに紛れて、とんでもない話です。
また2月19日、御所の近くに書杖(ふづえ。直接手渡すことがはばかられる相手に対し、先を裂いて書状を挟んだ杖)を持つ者が現れました。
当局の者がこれを開封したところ、火事場泥棒を密告するものでした。
茨田左近将監重方(まんだ さこんのしょうげん しげかた)の従者である近衛一成(このえの かずなり。姓不詳)が、御所から五尺の屏風一帖と手筥(手箱)を盗み出した……捜査したところ、果たして左近衛府で屏風と手筥が発見されます。
いつの時代にも火事場泥棒はいるもので、混乱している有事ほど、気をつけねばなりませんね。