戦国時代最強の鉄砲傭兵集団「雑賀衆」伝説の武勇と悲劇の結末:2ページ目
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内部分裂と「最強傭兵集団」の終焉
1570年ごろ、織田信長と一向宗の総本山である本願寺との戦いが始まります。雑賀衆の中にはこの一向宗の門徒が多く存在しており、彼らはすぐに本願寺の救援に向かうと、信長を苦戦させる活躍をみせたといいます。
しかしこれによって雑賀衆は信長に目をつけられてしまい、まもなくその制圧のために6万もの大軍が押し寄せてくるのです。
この時、隣の根来衆や、雑賀衆の中でも、一向宗の門徒が少ないグループは信長側に付いてしまいます。
はた目には、このような事態になってはもう終わりか、と思う所ですが、なんと彼らはその後1ヶ月もの間応戦し、最後は停戦にまで持っていきました。
こうした雑賀衆の活躍があったものの、残念ながら本願寺は信長に降伏することになります。そしてこれをきっかけに、雑賀衆の内部には大きな亀裂が入ってしまい、内紛が多発したり、近隣の勢力とのいざこざが増えたりしました。
それでもなお、この時点でも雑賀衆は強力な傭兵集団として成立していました。
決定的な事件が起こったのは、本能寺の変で信長がこの世を去ってからでした。その後、雑賀衆と根来衆は徳川家康の要請を受けて、豊臣秀吉の居城である大阪城へと攻め上がります。
特に大きな争いにはなりませんでしたが、これによって秀吉の怒りを買い、秀吉は10万もの軍勢で紀州を征伐にかかります。
信長が攻め入ってきた時と違い、雑賀衆はこれまでの内紛によってボロボロの状態でした。寝返りをする者も多く現れ、紀州の各地方は一瞬で攻め落とされてしまいます。
そして残党たちは、太田城で秀吉の「日本三大水攻め」の一つに数えられる大規模な水攻めにあい、ついに雑賀衆は滅亡してしまうのです。
素晴らしい武勲を挙げた集団でありながら、戦国の世に翻弄され、悲劇の結末を迎えたのです。
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