【鎌倉殿の13人】殺しても構わぬ…石橋山で討たれた息子の仇の身柄を預かった岡崎義実の決断:2ページ目
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与一のためにこそ、新六を赦す
しばらく考えた義実でしたが、新六の処刑を思いとどまる事にしました。
岡崎へ来てから毎日々々、神妙に法華経を唱える新六の姿を見て、心打たれるものを感じたのです。
「見ればかの新六めは、与一と概ね同じ年ごろ。信心深い若者を殺しては、与一の成仏に障りが出るやも知れぬ」
また、自分が我が子を討たれて悲しむように、敵にだって(生死はともかく)親はいるはず。
親の怨みが子の成仏を妨げてはならないと考えたのか、義実は新六を助命するよう、頼朝公に嘆願しました。
「かの長尾新六めを、お赦し頂けますまいか」
「ほう。別に構わぬが、その意(こころ)は」
確かに憎い仇ではあるものの、義忠ほどの豪傑を討ち取った勇士なれば、必ずやお役に立ちましょうとか云々。
「相分かった。悪四郎(義実)が忠義、褒めてつかわす」
かくして新六は兄の新五ともども赦され、三浦一族の郎党として武勇を奮います。
エピローグ
その後、定景は30年以上にわたって頼朝・頼家・実朝の源家三代に仕えました。
こと実朝が暗殺された時などは息子の長尾平太郎景茂(かげしげ)、同じく長尾平次郎胤景(たねかげ)と先登(せんど。一番乗り)を争って犯人の公暁(くぎょう)を討ち取る武勲を立てています。
「生かしておけば、必ずやお役に立ちましょう」
息子を討たれた怨みを呑み、広い心で赦してくれた義実の期待に、定景は全力で応えたのでした。
そんな定景は死後、長尾の所領(現:横浜市栄区)に葬られましたが、昭和になって鎌倉の久成寺(日蓮宗)に改葬。
定景の子孫はやがて越後国(現:新潟県)へ移り住み、越後の龍と恐れられた戦国大名・長尾景虎(上杉謙信)を輩出しています。
それもかつて義実が怨みを捨てたればこそであり、彼の決断が日本の歴史を大きく変えたと言えるのかも知れませんね。
※参考文献:
- 上杉和彦『戦争の日本史6 源平の争乱』吉川弘文館、2007年2月
- 野口実『源氏と坂東武士』吉川弘文館、2007年6月
- 栄区地域振興課『栄区郷土史ハンドブック』横浜市、2015年3月
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