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わずか6歳にして天才!江戸初期の政治家・松平信綱の活躍と実績をたどる【前編】

わずか6歳にして天才!江戸初期の政治家・松平信綱の活躍と実績をたどる【前編】:2ページ目

小姓を経て大名へ

さて慶長9年(1604年)、次期将軍である徳川秀忠に嫡男・家光が誕生すると、9歳の信綱は家光付きの小姓となります。小姓とは雑用係のことで、年若い少年が請け負っていました。

この頃のエピソードでも、興味深いものがひとつあります。

ある日、父・秀忠の寝殿の軒に雀が巣を作ります。

すると家光は、雀のひなを欲しがりました。

信綱は「何とかしなければ」と考え、夜になるのを待って寝殿の屋根に登り巣を取ろうとします。

しかし、誤って落ちてしまい、運悪くそれを秀忠に見つかってしまいました。

秀忠に「誰の指図で参ったか」と問い質されますが、信綱は「私が雀の巣が欲しくてやったのです」としか答えません。

うすうす事情を察していた秀忠でしたが、あえて信綱を問い詰めることにしました。

彼を大きな袋に入れて口を縛り、柱に括りつけます。そして翌朝、秀忠は再び「誰の指図か」と尋ねます。

しかし信綱は、昨晩と同じ返答を繰り返しました。

秀忠はすっかり感心して信綱を解放し、「信綱がこのまま成長すれば、きっと家光のまたとない忠臣になるだろう」と喜んだそうです。

信綱は慶長16年(1611年)に元服し、正永と名乗ります。しかし25歳になった元和6年(1620年)に、養父の正綱に実子の利綱が生まれたところで、名前を正永から「信綱」へと改めました。

改名の理由は、「正」という文字は実子が継ぐべきだと考えたからです。ここに「松平信綱」が誕生しました。彼のこの名前も、忠心から物事に筋を通す性格ゆえのものだったのです。

元和9年(1623年)、信綱は28歳で御小姓組の番頭に任ぜられます。また、家光の将軍宣下の上洛に従い、この時に「従五位下伊豆守」に任官されました。

この官位が、彼のあだ名である「知恵伊豆」の由来となります。

寛永5年(1628年)には所領が1万石となり、33歳で大名となりました。

【後編】では、天才政治家・「知恵伊豆」のその本格的な活躍ぶりを見ていきましょう。

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