手洗いをしっかりしよう!Japaaan

【鎌倉殿の13人】土肥実平が魅せた「焼亡の舞」、ボロボロの頼朝公を励ました旧跡「謡坂」

【鎌倉殿の13人】土肥実平が魅せた「焼亡の舞」、ボロボロの頼朝公を励ました旧跡「謡坂」:3ページ目

エピローグ・焼亡の舞

【謡坂】

治承4年(1180年)石橋山の合戦に敗れた源頼朝の一行は、箱根山中を逃れ出て岩海岸から房州(千葉県)へ向けて船出しました。その途中、無事を祝い再起を願って土肥実平がうたい踊ったと「源平盛衰記」にあります。
この付近の謡坂という地名はそれに由来するといわれます

※「謡坂」碑文より

以前、私用で真鶴へ立ち寄った時にここを通りがかりました。負け戦で疲労困憊しているのはみんな同じなのに、少しでも頼朝公や仲間たちを元気づけようと謡い舞った実平の心意気は、坂東武者の鑑と言えるでしょう。

ちなみにこの舞は「焼亡(じょうもう)の舞」と言いまして、自分の館が伊東祐親(演:浅野和之)に焼き討ちされているのを見下ろしながら「家など焼きたくばいくらでも焼け。その炎は主君を守護する光となろう」などと舞ったもの。

半ばヤケクソだったのかも知れませんが、もう何も失うものがなくなった実平たちは、それから大いに活躍したのでした。

※参考文献:

 

RELATED 関連する記事