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裏切者か、忠義の人か…「逆賊」と呼ばれ闇に葬られた戦国武将・伊集院忠棟【前編】

裏切者か、忠義の人か…「逆賊」と呼ばれ闇に葬られた戦国武将・伊集院忠棟【前編】

薩摩の名門・伊集院家

薩摩藩の大名と言えば、鎌倉時代から江戸時代までの700年の長きにわたって南九州一帯を収めてきた島津氏が有名です。

しかし、長期に渡る支配ともなると、揉め事や争い事も多いものです。今回は、戦国時代から江戸時代にかけて時代に翻弄され、島津家によって闇に葬られたと言える伊集院忠棟(いじゅういん・ただむね)を紹介します。

伊集院忠棟(1541?~1599年)は島津家の重臣・伊集院忠倉の子です。もともと伊集院家は、島津家の筆頭家老として代々君臨していました。

忠棟も幼い頃から島津義久に仕え、1566(永禄9)年に父から家老職を引き継ぎ、政務を取り仕切るようになりました。

戦にも参加しています。島津勢と大友宗麟らが激突した「耳川の戦い」や竜造寺隆信との「沖田畷の戦い」などの主要な戦いにも加わり、これらの功績から大隅国と日向国に2万石の領地を得ています。

また、茶の湯などの文化面にも通じていたといいます。政治家としても優秀、戦国武将としても名高い「文武両道」の名士だったと言えるでしょう。

さて、そんな忠棟の運命が大きく変わったのが1586(天正14)年のことでした。

九州制覇を目指し、豊後の大友領に侵攻していた島津義久ですが、翌年には豊臣秀吉による九州征伐が実施されて10万近い大軍が九州に上陸してきます。

ここで忠棟の出番です。彼は、以前から豊臣家との間を取り持つ役目を担っており、上方の情勢に詳しかったのです。そんな彼は「この戦に勝ち目はない」と判断して降伏を進言しました。

2ページ目 裏切者か、忠義の人か

 

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