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裏切者か、忠義の人か…「逆賊」と呼ばれ闇に葬られた戦国武将・伊集院忠棟【前編】

裏切者か、忠義の人か…「逆賊」と呼ばれ闇に葬られた戦国武将・伊集院忠棟【前編】

裏切者か、忠義の人か

しかし、義久とその弟の義弘は、徹底抗戦を主張して忠棟の主張を聞き入れません。結局、島津勢は日向国の根白坂で決戦に臨みます。

しかしこの決戦で、忠棟は事前の打ち合わせ通りに進軍しないという軍規違反を犯しました。

これにより、島津軍は敗北しました。その後、忠棟は剃髪して自ら人質となって島津家の赦免を願い出ます。おそらく彼は最初から敗北必至と判断しており、まともに戦うつもりはなかったのでしょう。

当初、義久と義弘は、忠棟の独断による降伏を認めようとしませんでした。しかし忠棟や島津家久の仲介により最終的には降伏を決めます。義久は剃髪して名前を「龍伯」と改めて秀吉と会見し、島津家の存続は叶ったのでした。

この行為を裏切り行為と見るか、それとも身を挺して島津家を救ったと見るかは、判断が分かれるところです。

さて、この後に行われた豊臣方による「戦後処理」において、忠棟は島津家の宿老としてその内政手腕を大いに発揮します。

そして豊臣方の重臣と懇意となったこともあり、彼は大隅国2万石を与えられました。それまではあくまでも島津家の老中という位置付けだったのが、豊臣の力によって大名へと昇格したのです。

これは島津家にとっては我慢できないものでした。

後編では、島津家・伊集院家の溝がさらに深まって、ついに破局に至るまでの経緯を説明します。

【後編】はこちらから

参考資料

 

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