国益維持のための聖徳太子の秘策とは?「遣隋使」は隋との交流だけが目的ではなかった:3ページ目
「圧力外交」としての遣隋使
遣隋使については、書簡を読んだ当時の皇帝が激怒したとか、そんな内容だけが有名になっている感がありますが、実際にはこれは大した外交戦略でした。隋帝国の圧倒的な国力を利用して、厩戸皇子は戦争を起こすことなく目的を達したのです。
608年には、裴世清という人物が、帰国した小野妹子とともに隋の使者として倭国にやってきて、推古天皇の宮殿である小墾田宮に参内しています。さらに翌々年の610年には、新羅はわざわざ任那の使いを伴って倭国へ朝貢してきました。これは厩戸皇子の確かな実績でした。
しかし、618年には皇帝の煬帝が殺されたことで隋は滅亡します。またしても、倭国は自力で新羅に対して「任那の調」の献上を強制しなければならなくなりました。
そして621年、厩戸皇子は、新たに建国された唐との国交樹立を模索していたところ、斑鳩宮で亡くなりました。
こうして見ていくと、遣隋使というのは単に大国・隋と交流するためだけに行われたのではないことが分かります。これは新羅に対する、武力を伴わない間接的な圧力外交の一種だったんですね。
参考資料
・遠山美都男・関幸彦・山本博文『人事の日本史』朝日新書・2021年
・歴史スター名鑑