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育て方を間違えた?北条政子が激怒した源頼家「愛妾略奪事件」【鎌倉殿の13人】

育て方を間違えた?北条政子が激怒した源頼家「愛妾略奪事件」【鎌倉殿の13人】:2ページ目

ここで政子が登場。二階堂行光(にかいどう ゆきみつ。二階堂行政の子)を使者に、以下の通り叱責しました。

「御殿(頼朝公)に続いて乙姫(おとひめ。頼朝公の次女・三幡)も亡くなり、その喪も明けていないというのに、大義なき戦さで世を乱そうとは何をお考えか。安達殿は人望に篤く、亡き御殿も目をかけたほどの者。軽々に謀叛を起こすはずもなく、それをロクに調べもせず、都合が悪いからと誅戮(ちゅうりく。罰し殺すこと)すれば、必ず後悔することになりましょう(意訳)」

【原文】幕下薨御之後。不歴幾程。姫君又早世。悲歎非一之處。今被好鬪戰。是乱世之源也。就中景盛有其寄。先人殊令憐愍給。令聞罪科給者。我早可尋成敗。不事問。被加誅戮者。定令招後悔給歟。

「……それでもなお不義の戦を起こされるのであれば、この母が真っ先にあなたの矢に当たりましょう!(意訳)」

【原文】若猶可被追罸者。我先可中其箭云々。

我が子の教育を誤った責任を、母である私が死をもって負いましょう……そんな政子の鬼気迫る叱責を前に、流石の頼家も抗えず、渋々兵を引いて鎌倉は事なきを得たのでした。

終わりに

こうして終息した頼家の愛称略奪・安達景盛討伐未遂事件でしたが、その真意は権威の世代交代・権力の奪還だったと考えられます。

景盛は「鎌倉殿の13人」の一人・安達盛長(もりなが。小野田盛長)の子であり、それを屈服させることで宿老たちを黙らせたかったのであり、愛妾云々は(好色的な理由と合わせて)喧嘩を売るキッカケだったのでしょう。

恐らく本気で景盛を討つつもりではなく、自分に「恐れ入りました」と頭を下げさせ、それを寛大に許してやる、という形で手打ちにしたかったのではないでしょうか(妻を奪われた側が謝らされると言うのは、非常に理不尽な話ですが)。

実際、頼家は合議制によって停止されたはずの訴訟採決権を行使しており、この一件で御家人たちも「まぁ、大勢に支障がなければ、権力を振るわせて(満足させて)やろうか」と妥協したようです。

しかし、頼家にとっては得たものよりも失ったものの方が大きく、それがやがて破滅につながり、御家人たちの権力抗争は本格的に激化していくことになるのでした。

※参考文献:

 

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