評判最悪のダメ将軍…だったのか?室町幕府8代将軍・足利義政の真意と実像は:2ページ目
戦乱をよそにわび・さびの世界へ…
実子に恵まれなかった義政は、早く将軍をやめたいと考えていました。そこで仏門に入っていた弟を還俗させ、足利義視(よしみ)を次期将軍にさせようとします。
しかしその矢先に実子の義尚(よしひさ)が生まれたことで、義視派と義尚派に分かれて有力者たちが争いを始めるようになり、それがピークに達した時、京の町を中心として応仁の乱が起こりました。
我が子を将軍につけたい日野富子は義尚派である山名宗全を頼み、義視は義視で管領である細川勝元を頼みます。加えて、それぞれに家督相続を争っている斯波氏、畠山氏の双方が味方に付き、さらにはそれぞれの派に勢力伸長を狙う地方の守護や国人が味方に付き、もうむちゃくちゃです。
後世から見てもむちゃくちゃに見えるくらいですから、しまいには当事者たちも何がなんだか分からなくなっていました。何が目的なのか、何をどうすれば勝利者としてこの戦乱を収めることができるのか誰にも分かりません。こうして戦乱は全国各地に広がっていきます。
そんな中、将軍の義政は趣味に耽っていました。
やがて文明5年(1473)に細川勝元と山名宗全の両名が死ぬと、義政も将軍職を義尚に譲って隠居します。一応、まだ政治的な影響力は残していたため、義政は「東山殿」、義尚は「室町殿」などと呼ばれていました。
義政が完全に引退したのは、応仁の乱が終結してからでした。
彼は東山山荘(東山殿)を造営して銀閣を建立し、絵画や能楽など文化的な活動に力を注ぎ、芸能・芸術に携わる人たちへの支援を積極的に行います。
初花、九十九髪茄子といった茶器がつくられたのもこの時代です。義政の支援で栄えた文化は「東山文化」と呼ばれ、日本文化の伝統の「わび・さび」の世界はここから始まっていきました。
義政の別荘は今でいう「銀閣寺」です。