その恩義をいつまでも…飢饉にあえぐ領民を命がけで救った戦国武将・一色輝季
古来「犬は三日も飼えばその恩義を忘れない」などと言う一方で、人間は万物の霊長などと嘯(うそぶ)きながら、何と恩知らずの多いことか……筆者も自戒せねばなりません。
さて、そんな人間の中でも、かつての恩義を忘れない高尚な者も少なからずいるようで、今回は戦国時代末期から江戸時代初期にかけて活躍した一色次郎輝季(いっしき じろうてるすえ)のエピソードを紹介。
輝季と領民たちの絆は、果たしてどのように育まれたのでしょうか。
飢饉にあえぐ領民たちを救うため……
一色次郎輝季は生年不詳、下総国葛飾郡田宮荘(現:埼玉県幸手市)を領する一色八郎直朝(はちろうなおとも)の子として誕生。
兄に一色義直(よしなお)、一色氏頼(うじより)がおり、三番目の男子でありながら次郎という通称は、兄のいずれかが腹違いなのかも知れません。
さて、一色家ははじめ古河公方(こがくぼう。足利氏)の重臣として仕えていましたが、後に北条(ほうじょう)氏へ臣従。
やがて天正18年(1590年)に豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)が北条氏を征服した際、徳川家康(とくがわ いえやす)の弟・松平三郎太郎康元(まつだいら さぶろうたろうやすもと)によって所領を追われてしまいました。
「勝敗は武門の常、強き者に従(したご)うて民を安んずるは理の当然ぞ……」
父や兄弟らは徳川家に降伏しますが、それを潔しとしない輝季はただ一人で落ち延びて葛飾郡川妻村(現:茨城県五霞町)に潜伏。捲土重来の機会を虎視眈々と狙ったと言います。
この間、松平家は下総国葛飾郡関宿(現:千葉県野田市)に2万石を拝領し、後に4万石に加増。後に関宿藩(せきやどはん)と呼ばれました。
そして、30年の歳月が流れた元和6年(1620年)。利根川が氾濫を起こして飢饉が発生、領民たちは塗炭の苦しみに喘いだと言います。
「このままではみな飢え死にだ……かくなる上は、年貢米を奪うよりあるまい!」
一度この地を治めた以上、最期まで民を守り抜いてこその領主である。そう思い決めた輝季は関宿藩の年貢米を強奪。これを領民らに分け与えて飢えをしのいだのでした。
「さぁ、みんなで食って生き延びるのだ!」
「ありがてぇ、ありがてぇ……」
30年も流浪の身でありながら、領主としての誇りと使命を忘れなかった輝季の姿に、領民たちはさぞや心打たれたことでしょう。