言葉の壁を乗り越えるには?遣唐使として海を渡った貴族・橘逸勢のエピソード:2ページ目
たとえ言葉が解らなくても……
橘逸勢は奈良時代の末期、延暦元年(782年)ごろに橘入居(いりい)の末っ子として誕生。幼少時から利発だったそうで、平安時代初期の延暦23年(804年)に遣唐使の一人として抜擢されます。
「しかし、唐の言葉は難しいな……」
でもまぁ、行けば何とかなるだろうと行ってみたはいいものの、やはり言葉の壁は厚く高く、なかなか修得できません。
「困ったなぁ……」
流石に日本国の代表として唐くんだりまでやって来て、それで「何も学べませんでした」では税金泥棒の誹りは免れないでしょう。
こうなったら是が非でも、唐に渡ったならではのモノを学ばねば……逸勢の出した答えは、琴と書道。これなら、言葉が通じなくても実際に演奏し、筆を運べばいいからです。
「ごちゃごちゃした理屈は要らんのだ!考えるな、感じろ!魂のままに弦を爪弾き、思うがままに筆を走らせるのだ!」
と思ったかどうだか、一度開き直ってしまえば人生意外に上手く行くもので、琴も書も一流を究めることが出来たのでした。
こと書については当代一流の柳宗元(りゅう そうげん)に学び、唐の人々から橘秀才と呼ばれたのだとか。
やがて大同元年(806年)に日本へ帰国してからも、空海(くうかい)や嵯峨天皇(さがてんのう。第52代)に並ぶ「三筆(さんぴつ)」と称され、現代までその名を残しています。