日本文学はピカソに先んじていた!?『和泉式部日記』とシュールレアリスムの関係:2ページ目
2ページ目: 1 2
『和泉式部日記』の中のデペイズマン
実は11世紀頃の古典文学作品『和泉式部日記』の中に、すでにこういう視点が登場しています。
和泉式部という情熱的な歌人が、恋人を亡くしてすぐ後にその弟と恋愛するという、実に奔放な愛の物語です。
ところがこの物語、「視点移動」が甚だしく、語り手が一人称とも二人称とも三人称ともつかない不思議な記述なのです。
物語のある時点では、主人公の和泉式部は「私」として登場します。しかし、別のシーンでは第三者として登場したりするのです。国文学者はこれは日記なのか物語なのかと議論しますが、考えようによってはこれも、視点が「私」「あなた」「彼(彼女)」に定まらない視点移動のシュールレアリスムです。
もうお判りでしょう。ピカソの絵も同じで、ひとつの固定された時間・空間の中で視点がめまぐるしく変わっているから、鼻が横向きになったり、目が上向きになったりするんですね。
自由ゆえの「真の人間性」
ピカソの絵も、和泉式部日記も、その自由奔放さゆえに古典となりました。ここに見られる人間性の回復とは要するに何なのかというと、「自由に」そして「多様に」ものを見て考えるということでした。
顔と同時に背中を見ることで初めて全体が見え、情景は豊饒な彩りに満ちてくる。そのことをピカソは知っていました。
視点を定めることは「観察する私」の優位を意味します。そんな「観察する私」への絶対的な信頼を、ピカソや和泉式部日記は揺さぶってくれます。
西欧文明が、第一次大戦後にやっと気付いた「真の人間性」についての感性を、昔々の日本人がすでに知っていたのかも知れないと考えるとちょっと誇らしいですね。日本人はその思想性においてピカソに先んじていた、のかも?
ページ: 1 2