三韓王に、俺はなる!古代朝鮮で王朝独立を目指した紀大磐の野望と謎:2ページ目
三韓王に、俺はなる!と、神聖王を称したが……
「せっかく武勲で初陣を飾ろうと思ったのに、つまらぬ横槍でふいになってしまったわい……」
日本に帰国して以来、むしゃくしゃしながら過ごしていた大磐でしたが、歳月は流れて顕宗天皇3年(487年)、再びチャンスが巡って来ました。
「よし、今度こそ!」
喜び勇んだ大磐は軍勢を率いて海を渡り、たちまち任那(みまな。朝鮮半島の古代王朝)を掌握して活動拠点を確保します。
「よし、北の高句麗(こうくり。同)と手を組んで西の百済(くだら。同)を征服しよう!」
この動きを警戒した百済王は軍勢を差し向けて来ましたが、大磐は奮戦してこれを撃退。初陣で活躍できなかった20年越しのフラストレーションを晴らしたのかも知れません。
「百済の兵など恐れるに足らぬ!者ども、大いに暴れ回れ!」
「「「おおう……っ!」」」
向かうところ敵なし、その勢力を拡大した大磐は任那人の左魯(さ ろ)と那奇他甲背(なかたこうはい)の補佐を得て(唆されて?)三韓の王たらんと野望を燃やします。
「我はこれより『神聖』と号する!」
「「「神聖王殿下、万歳!万歳!万歳……っ!」」」
政府機構の整備も推し進めて、朝鮮半島に新たな王朝の出現かと思われますが、どういう訳か大磐はすべて投げ出して、日本へ帰国してしまいました。
「「「えええ……っ、殿下!?」」」
なぜ大磐が三韓王の地位を捨ててしまったのかは不明ですが、ともあれ残された左魯、那奇他甲背ら近臣300名は百済軍の逆襲に遭い、皆殺しにされたそうです。
ここまですべて顕宗天皇3年(487年)年内の出来事であり、まるで嵐のような激動の一年であったことは想像に難くありません。
エピローグ
帰国以降、紀大磐がどうなったのか『日本書紀』にも記録がなく、すべては謎のままですが、もしかしたら実は暗殺されていて、それを隠すため急きょ帰国したことにしたとか、色々と想像がはかどります。
それにしても、せっかく大磐を擁立したのに梯子を外された形で最期を遂げた左魯、那奇他甲背らが不憫でなりませんね。
なお、紀大磐には紀男麻呂(おまろ)、紀小足(おたり。男麻呂の子説もあり)という子供がおり、その血脈を後世に伝えていますが、彼らの物語についてはまたの機会に紹介できればと思います。
※参考文献:
- 宇治谷孟 訳『全現代語訳 日本書紀 上』講談社学術文庫、1988年6月
- 宇治谷孟 訳『全現代語訳 日本書紀 下』講談社学術文庫、1988年8月
- 坂本太郎ら監修『日本古代氏族人名辞典』吉川弘文館、2010年11月
- 藤原彰 監修『コンサイス日本人名辞典』三省堂、2001年9月