炎上覚悟の不謹慎発言も本気!関東大震災後の東京を蘇らせた男、後藤新平が構想した「理想的帝都建設」
「不謹慎」発言も本気の本気
1923(大正12)年9月1日、関東大震災が発生しました。死者・行方不明者あわせて10万人が犠牲になった巨大地震です。
先般の東日本大震災では、公人私人を問わず「不謹慎」な発言な発言をした人がネット上などで叩かれる光景をよく目の当たりにしましたね。
ところがこの関東大震災では、「不謹慎」な発言を堂々と復興計画書の中に記して、そして壊滅状態にあった帝都・東京を本当に蘇らせてしまった人物がいたのです。
その人物の名は、後藤新平(ごとうしんぺい)[1857~1929]。
彼は震災の翌日に作った『帝都復興ノ議』という文書の中で、「震災を理想的帝都建設の為真に絶好の機会」だとする文言を書き込んでいました。
現代だったら、これは「炎上」すること間違いなしです。
しかし後藤は、冗談や軽口でそう書いたのではありません。本気の本気だったのです。当時の政府で東京復興を任された後藤は、当時の国家予算の二倍の額である「30億円」の予算を提案し、土地を買収して区画整理を行う計画をぶち上げました。
彼はなぜ、こんな大胆な計画を立てられたのでしょうか。
実は、後藤は以前から「理想的帝都建設」の準備を進めていたのです。
この記事では、後藤がそのような構想をするに至った経緯と、その結果について辿ってみたいと思います。
医師として、そして統治者として
後藤の大胆な「理想的帝都建設」構想の源流を知るためには、まず彼の経歴を見る必要があります。
もともと彼は医者でした。1857年、現在の岩手県奥州市の水沢生まれ。水沢といえば戊辰戦争で敗れた藩で、後藤の家は「朝敵」のレッテルを貼られていました。しかしそんな境遇をはね返すかのように後藤は猛勉強して医者になります。
そして彼は内務省で衛生局長にまで上り詰めました。それから、当時の陸軍次官だった児玉源太郎との出会いがきっかけとなって、台湾の民政局長や南満州鉄道の初代総裁となり、「統治者」としての才覚を発揮していくことになります。
彼の都市改革の手法は、病人に治療を施すような手付きで社会体制を改善するというものでした。特に当時の台湾は財政破綻、抗日ゲリラの活動、アヘンの蔓延などの問題を抱えていましたが、これを「治療」し、産業の振興や鉄道の育成を果たしています。また、現在の台北の街の基礎を造ったのも彼です。
こうした経歴を経て、1920年に彼は東京市長に就任します。当時の東京は都市化が急速に進んでおり、近代産業や交通の発達、人口の急増に整備のスピードが追い付いていないという課題を抱えていました。
そこで後藤は、就任の翌年には大改造計画『東京市政要綱』を発表。予算の問題から現実化には至りませんでしたが、その後も道路を舗装したり、市政調査会を設けて海外の学者からアドバイスをもらったりするなど東京の改造のために精力的に活動します。