酔っ払って妻を斬殺するも隠ぺい工作…第2代内閣総理大臣・黒田清隆の酒乱エピソード
明治21年(1888年)、伊藤博文(いとう ひろぶみ)の後を継いで第2代内閣総理大臣となった黒田清隆(くろだ きよたか)。
薩摩藩を代表する志士の一人として幕末維新に大功を立て、明治政府でも外交分野や北海道の開拓など大いに活躍しましたが……。
「酒さえ呑まなきゃ、いい人なんだけどねぇ……」
黒田はとかく酒乱のケがひどく、ひとたび酔っ払うともう手がつけられない暴れぶりだったそうです。
今回はそんな一例、妻に手を上げてしまったエピソードを紹介したいと思います。
酔っ払った勢いで妻を斬殺
時は明治11年(1878年)3月28日。
「お許しを……どうか、お許し下さいませ!」
「黙れ、この不届きな売女(ばいた)めが……っ!」
いつものように酔っ払った黒田が「出迎えが遅い」「態度が悪い」だの何だと言いがかりをつけ、勢い余って妻の清(きよ)を斬り殺してしまいます。
清は嘉永7年(1854年)に旗本・中山勝重(なかやま かつしげ)の娘として誕生、明治2年(1869年)に16歳で黒田家へ嫁ぎました。
新婚当初は夫婦仲も円満で一男一女に恵まれますが、いずれも幼くして亡くなってしまい、清の妹である百子(ももこ)を養女として迎えます。
「健康な子供も産めないような女など、ロクなモノではない!」
当時の刑法である「新律綱領(しんりつこうりょう)」では、夫が妻のほかに妾(めかけ。愛人)を囲うことを許していた一方、妻が不倫した場合は夫が自由に処罰して≒殺してよいことになっていました。
ちなみに、妻が夫を殴った場合は鞭打ち百回の刑罰が科せられた一方、夫が妻を殴ることについては何の罪にも問われなかったと言います。
(現代では到底考えられない男尊女卑思想ですが、当時はそうした価値観が蔓延していたのでした)
「どうだ……思い知ったか!」
とは言うものの、いくら「不倫をした」事にしたとしても、現職の閣僚が妻を斬り殺してしまうのは流石に外聞が悪すぎです。
そこで「かねて肺を患っていたが、手厚い看病の甲斐なく亡くなってしまった」という筋書きで葬儀を上げましたが、その真相を週刊誌『團團珍聞(まるまるちんぶん)』にスッパ抜かれてしまいました。