男尊女卑が当たり前の江戸時代、数々の武勇伝を残した美人女伊達 「奴の小万」【中編】
前回のあらすじ
前回のあらすじはこちら男尊女卑が当たり前の江戸時代、数々の武勇伝を残した美人女伊達 「奴の小万」【前編】
浪速の豪商木津屋の娘“お雪”。幼い頃から書画を始めとする教養を身につけながらも、武術も身につけたお雪は、16歳の時四天王寺参りの途中、簪を奪い取ろうとした男二人を投げ飛ばしてしまいます。
その噂は尾ひれもついて大阪中の噂となってしまいますが。。。
“奴の小万”の誕生
お雪の武勇伝の噂を聞きつけた人形浄瑠璃の作家が、なんと『容競出入湊(すがたくらべでいりのみなと)~奴の小万~』という人形芝居を作り、延享5年(1748)道頓堀の豊竹座で初春興行を行ないます。
さらに同じ年の七月には歌舞伎座でも『女尺八出入湊 黒船忠右衛門当世姿』という外題の公演をそれぞれ行い、“奴の小万”という主役を登場させましたた。
奴髻に尺八を持った“奴の小万”の大立ち回りは大当たりしてしまうのです。
何故、“奴の小万”という名がついたかというと、江戸の町に存在した「町奴」からきていると思われます。
「町奴」はお互いの“男伊達”を競い合い、男としての面目を保ち“弱きを助け強きをくじく”という心意気で江戸の町の人々から一目も二目も置かれる存在でした。
そんな「町奴」の心意気は、かよわいはずの娘が乱暴者の男達をなぎ倒すという女主人公に重なるのです。
“小万”という名は、お雪の実母の“万”という名前を元に名付けられました。
このように町の噂に芝居まで加わり、ついには東海道を股にかけた女侠客「奴の小万」の名前は大坂中に知れ渡り、作り上げられたお雪の姿が一人歩きしていきました。
お雪、京へ
お雪は豪商の木津屋の婿取り娘、つまり木津屋を継ぐ夫をみつけて結婚しなければいけない立場でした。
しかし、お雪の婿候補の男達はどれもこれも軟弱者。ついにお雪は“結婚はしない”と誓ってしまいます。
外出すれば“奴の小万”と呼ばれ、お雪は顔を黒く塗った上に白粉をはたく(!)という化粧をして町を歩くようになったりします。これはどういう意味なのでしょう。そんなに自分を持ち上げてくれるな、このような醜女だとでも言いたかったのでしょうか。
お雪は大阪中の人々が自分に“奴の小万”を重ねてくることに嫌気が差したのか、20歳になった頃、こうした騒ぎから逃れるように、京の御所に奉公に出ます。
お雪は公家長橋局の祐筆(書記係)となり、この頃に和歌や漢詩など雅な教養を身につけたと考えられています。