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幕末期に西欧の演劇に触れ、歌舞伎の本拠地「歌舞伎座」を今に残した福地源一郎の功績

幕末期に西欧の演劇に触れ、歌舞伎の本拠地「歌舞伎座」を今に残した福地源一郎の功績

伝統芸能・歌舞伎の本拠地を今に残した福地源一郎

実業家の千葉勝五郎と手を組み、明治22年11月21日歌舞伎座を開場。場所は現在の歌舞伎座がある木挽町三丁目、レンガ造りの洋風な外観で、内部は日本風の三階建てでした。客席の定員は1824人、間口は十三間(約23.63m)と、文字通り当時として日本一の大劇場が誕生しました。

源一郎は歌舞伎座の座付き役者となり、同じく演劇改良を熱心に目指した九代目市川團十郎のために歌舞伎台本を執筆。高尚な芸術としての歌舞伎の実現を目指しました。そのうちの一つが現在も人気演目として上演されている「春興鏡獅子」です。

そんな歌舞伎座は当初、「改良劇場(改良座)」と名付けられる予定だったと言われています。

予定が変更され「歌舞伎」の名を冠したおかげで、他の演劇と歌舞伎の差別化が図られ、歌舞伎の名優たちの本拠地となり、現在に至ります。源一郎が開場した劇場が歌舞伎座という名前でなければ、現在の歌舞伎界は違った形になっていたかもしれません。

幕末期の混乱のなか西欧の演劇に触れ、歌舞伎の改良を目指していた福地源一郎が、結果的に伝統芸能としての歌舞伎の本拠地を今に残したというのは、興味深い事実です。

参考文献:「芝居絵に見る江戸・明治の歌舞伎」早稲田大学演劇博物館編、「明治演劇史」渡辺保、日本大百科全書

 

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