大名から農民に、お家再興まで苦難の連続…「最後の大名」林忠崇の人生が波乱万丈すぎ!【後編】:3ページ目
「最後の大名」その晩年と辞世
やがて昭和12年(1937年)に旧広島藩主であった浅野長勲(あさの ながこと)が亡くなると、忠崇は江戸時代から生き残った「最後の大名」として注目を浴びるようになります。
忠崇は老いてなお矍鑠として時折メディアの取材に応じたり、近所の人々に鎖鎌など武芸を教えたり、好きな絵画を楽しんだり、と充実した晩年を過ごしたそうです。
戊辰戦争から半世紀以上が過ぎても忠崇は武士の嗜みとして剣術の鍛錬を怠らず、寝る時も仰向け(仰臥)ではなく、心臓を刺突されぬよう左半身を下に横臥。また枕元には護身用の十手を欠かさなかったと言います。
そして昭和16年(1941年)に94歳で世を去るのですが、周囲の者から辞世を詠むよう求められた際「明治元年にやったから、今はない」と答えたそうです。
真心の あるかなきかは ほふり出す
腹の血しおの 色にこそ知れ【意訳】私に真心があるかどうか、これから切腹して腸を掻き出して見せるから、その血の色で解るだろう!
かつて新政府軍に降伏する時、死を覚悟して詠んだ辞世は、往時を知る者の涙を誘ったことでしょう。
終わりに
至誠にして動かざる者は、未だ之れ有らざるなり
※『孟子』離婁上より【意訳】いまだかつて「誠の心がありながら(心から感動したのに)、何も行動を起こさなかった」という者に、私(孟子)は出会ったことがない。
志のために地位も保身も擲(なげう)って戦い、その結果として永年の苦境を味わいながら、旧臣らの支えで御家再興を果たし、とうとう「最後の大名」となるまで生き残った林忠崇。
どこまでも純粋で、どこまでも不器用なその姿は、時流に乗って賢(さか)しらに立ち回る者からすれば愚か者にしか見えなかったでしょうが、七転八倒しながらも決して諦めなかったからこそ、旧臣らも心動かされたのでしょう。
「この人には、どうか幸せになって欲しい」
「こんなバカ正直で純粋な人が、報われないまま死んでいくなんて、絶対にいやだ!」
まさに至誠通天(しせいつうてん。誠の至りは天へと通ず)、みんなの想いで勝ち取った林忠崇の御家再興は、日本の輝ける精神的至宝と言っても過言ではないでしょう。
【完】
※参考文献:
- 河合敦『殿様は「明治」をどう生きたのか』扶桑社、2021年7月
- 中村彰彦『脱藩大名の戊辰戦争 上総請西藩主・林忠崇の生涯』中公新書、2000年9月