大名から農民に、お家再興まで苦難の連続…「最後の大名」林忠崇の人生が波乱万丈すぎ!【後編】:2ページ目
苦節の末に御家再興を果たすも、妻と死別
「どうか……どうか林家をお見捨てなきよう!」
かつて忠崇の身柄を預かった本家の小笠原家の協力を得て活動を展開。
「「「今こそ、主君のお役に立つべし!」」」
何としてでも忠崇を華族(旧大名待遇)に列せしむるため、各地に散らばっていた旧臣たちが少しずつ力を合わせます。
「皆の者、忝(かたじけな)い……!」
篤い忠義に胸打たれながら、希望を持って生きていた忠崇は、明治19年(1886年)ごろに小島チヱ(こじま ちゑ)と結婚しました。
チヱは江戸時代末期の安政元年(1854年)、平民である小島弥作(やさく)の次女として誕生。旧臣の樋山省吾(ひやま しょうご)が紹介してくれたのです。
「つまらぬ女ではございまするが、きっとあなたの立身出世を見届けるべく、お側で支えて参ります」
「うむ。皆の思いに応えるべく、必ずや志を果たそうぞ!」
そして戊辰戦争から20年以上の歳月を経た明治26年(1893年)、ついに忠崇は従五位に叙せられ、華族の仲間入りを果たしました。
「「「おめでとうございます……!」」」
併せて宮内庁の東宮職庶務課に就職が決まり、いよいよ人生が上向いて来たように見えましたが、少し張り切り過ぎたのか身体を壊して明治29年(1896年)に辞職、故郷の請西村に帰って療養します。
3年間の療養生活を経て体調が回復した忠崇は、今度は神君・徳川家康を祀る日光東照宮(現:栃木県日光市)で神官として奉職しました。
徳川家に対して誰よりも忠義に篤かった忠崇ですから、これこそまさに天職だったでしょうが、長年の苦労が祟ったのか、今度はチヱが身体を壊してしまいます。
妻との別れ
「どうか、私のことは顧みず、徳川家のためご奉職下さいまし……」
「そうは行かぬ。苦しい時に支え続けてくれたそなたの献身を顧みねば、東照神君もお怒りになろうぞ」
かくして明治35年(1902年)に神官を辞職してチヱを介護するため帰郷した忠崇ですが、明治37年(1904年)闘病生活の末にチヱを喪います。
「チヱ……」
「お母さま……」
チヱとの間に授かった一人娘・ミツを育て上げた忠崇は、大正4年(1915年)に彼女の嫁ぎ先である岡山県へ移住。婿の妹尾順平(せのお じゅんぺい)と同居しました。
この妹尾順平は一族で経営する妹尾銀行の頭取を勤め、後に衆議院議員となりますが、昭和5年(1930年)にミツと離婚。
再び父娘の二人暮らしとなり、妹尾から譲り受けたミカド商会を経営。後に会社をたたんでアパート経営を始めました。