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討幕への口火に!黒幕・西郷隆盛が仕組んだ薩摩屋敷焼打ち事件とは【維新政府、徳川慶喜の動向編】

討幕への口火に!黒幕・西郷隆盛が仕組んだ薩摩屋敷焼打ち事件とは【維新政府、徳川慶喜の動向編】:3ページ目

主戦論が渦巻く大坂城中

 

維新政府内で、慶喜復権の動きが進む中、旧幕府軍がひしめく大坂城中では、軍事的暴発がギリギリのところまで迫っていた。

主戦派の中には、傍観を決め込む慶喜を刺し殺してでも、薩摩を討つために軍を京に向けようとする動きまであったという。

だが、慶喜は動かない。軍事的な衝突を避けつつ、事を慎重に進めれば、もう少しで維新政府内の重要なポジションに座することができるのだ。ここは、最後の我慢のしどころだった。

しかし、12月28日、慶喜が予想もしなかった報告が江戸から届いた。3日前に江戸湾を出港した軍艦順動に乗船した大目付の滝川具挙が大坂城に到着、江戸高輪の薩摩藩邸焼打ち事件の顛末がもたらされたのだ。

この報告に大坂城中は湧き上がった。江戸における薩摩藩の非道の数々、それを討伐した幕府軍の働き。将士たちは、激昂し血相を変え、慶喜に討薩を迫った

追い詰められた慶喜は、ついに「討薩の表」を発した。

十二月九日以来の薩摩藩の振る舞いは、朝廷の真意ではない。ひとえに島津家の奸臣どもの陰謀である。さらに、浮浪の徒を装い江戸で押し込み強盗を働くなど、許せるものではない。君側の佞臣を除くため、誅戮を加える。

明くる1868(慶應4)年1月2日、1万5千の旧幕府軍が「慶喜公上京の御先供」の触れ込みで京都を目指して進軍を開始した。やがて、軍勢は薩摩を中心とする維新政府軍と激突、鳥羽伏見の戦いに発展していく。

しかし、これは決して歴史の椿事ではない。西郷隆盛という稀代の策士が画策した入念な仕掛け、すなわち薩摩藩邸焼打ち事件が功を奏したできごとだった。

慶喜の政権復帰が現実味を帯びてくる中、なんとしても戦争を起こし慶喜と旧幕府の息の根を止めねば、自分たちの理想とする王政復古はならない。そんな西郷ら討幕派の執念が実ったのだ。

 

【その2】はここまで。【その3】では、薩摩藩邸焼打ち事件と西郷隆盛の人物像について述べていこう。

 

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