まさに江戸時代版ロックダウン…文政コレラを収束させた幕府の水際対策は「箱根関所封鎖」だった!:3ページ目
水際対策「関所封鎖」の効果
幕府が講じた水際対策「関所封鎖」はすぐに効果が現れました。東海道を東へ向かって拡大していたコレラは箱根峠の手前、三島宿で食い止めることができたのです。結果、文政のコレラは江戸で流行することなく、収束することになりました。
この時の幕府の対応は評価できる一方で、通行人が激減した街道では行商人や旅籠、茶屋等といった宿場関係者へ与えた経済的影響は決して少なくなかったと想像できます。それだけ街道における関所の影響力は大きいことがわかります。
その後、コレラは幕末の安政5年(1858)、米国艦船「ミシシッピー号」によってもたらされ日本で再流行します。この時はいわゆる「鎖国」状態が解かれ、日本各地の港が開かれていたこともあり、人流抑制は容易ではなく江戸でも感染拡大してしまいました。
その死者数は江戸だけでも30万人にのぼったと言います。さらに、文久2年(1862)、明治に入ってからも数回流行しています。文久の頃は幕府の力が弱体化し関所のコントロールもままならず、明治に入ったら関所自体がすでに廃止されてしまっていました。
今から約200年前の文政年間、日本で流行したコレラは「関所封鎖」という水際対策が効果を発揮しました。普段は街道の不審者を取り締まる関所が「コレラ」という未知の感染症を封じることになったところに、その影響力の大きさを感じます。
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