【錦絵で見る明治維新】文明開化の明治時代、錦絵はジャーナリズムの役割も担っていた:2ページ目
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内国勧業博覧会
明治10年(1877)、日本初の内国勧業博覧会が開かれます。
殖産興業推進政策と深く結びつき、国内の産業発展や魅力ある輸出品目育成を目的に盛大に開催されました。
展示品は鉱業及び冶金術、製造物、美術、機械、農業、園芸の6つに分類され、全国から14,000点以上が出品されました。
鹿鳴館
明治16年(1883)、鹿鳴館で初の舞踏会が開催されました。
明治政府は欧米諸国との間の不平等条約を改正するため、日本が文明国であることをと見せようと豪華絢爛な洋館「鹿鳴館」を建設しました。
もとは迎賓館としての使用や、外国との社交場のために作られましたが、舞踏会や明治天皇の誕生日を祝う天長節をはじめとした国内行事、皇族や上流夫人の慈善バザーなども開かれました。
鹿鳴館を中心にした外交政策は「鹿鳴館外交」、欧化主義が広まった明治10年代後半は「鹿鳴館時代」と呼ばれます。
錦絵新聞
錦絵新聞とは「東京日日新聞」という新聞記事の一部を錦絵にしたもので、ほとんどが明治7年(1874年)〜明治14年(1881年)のごく短い期間に発行されていました。
取り上げる題材は主にスキャンダルや珍しい出来事などで、今の新聞で言う3面記事、社会面が主でした。
例えばこちらは、力士が火消しをしているところです。
火消しは本来、力士の仕事ではありませんが、電柱に引火しそうになっため、力士たちが水を運んだり建物を壊して火の手を止め、電柱を守った時のことが描かれています。
当時、電柱は最先端の技術でとても貴重だったため、力士たちも必死で守ったのだと思われます。
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