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20,000対763名!戦国武将・高橋紹運が魅せた武士の心意気と壮絶な最期【下】

20,000対763名!戦国武将・高橋紹運が魅せた武士の心意気と壮絶な最期【下】

エピローグ・紹運からの書状

さて、紹運の首級は首実検のため忠長のもとへ届けられますが、遺体の傍らにあったという書状も添えられていました。

「これも義によってなれば、ご理解されたし」
【意訳】元より貴公に恨みはなく、和睦の意思を踏みにじるようなことをして心苦しく思わないでもないが、武士として主君の恩義に背く訳にはいかず、このようになったことを、理解して欲しい。

これを読んだ忠長は座っていた床几(しょうぎ。椅子の一種)から崩れ落ち、両膝をついてその死を惜しんだと言います。

「我らは類まれなる名将を喪ってしまったものだ。入道(紹運)殿はまさに軍神の化身であった。もし彼と和解できたならば、かけがえのない友となれたろうに、まことに武士とは恨めしく、因果な道であることか……」

島津の諸将も瞼の裏に浮かぶ紹運の鬼神ぶりを思い出し、涙に袖を濡らしたのでした。

その後、岩屋城での痛手が後を引いて島津の九州統一が遅れたため、やがて豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)の九州征伐を受けますが、主君・義鎮は無事に生き永らえることとなります。

紹運らが命を賭けて守り抜いたのは、単に主君の命のみならず、あるべき武士の姿、そして日本の精神だったように思えてなりません。

【完】

※参考文献:
桐野作人『歴史群像デジタルアーカイブス <島津と筑前侵攻戦>壮絶!岩屋城 高橋紹雲の抵抗』学研、2015年3月
小林よしのり『ゴーマニズム宣言SPECIAL 大東亜論第一部 巨傑誕生篇』小学館、2014年1月
吉永正春『九州戦国の武将たち』海鳥社、2000年11月

 

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