真田十勇士とは?戦国武将・真田幸村を支えた10人の凄腕家臣達【前編】:2ページ目
穴山小助(あなやまこすけ)
槍の名手で博打を生業としていた穴山小助は、父とともに戦場を渡り歩いていました。それが真田の耳に入り、小姓として仕えることに。十勇士の中で最も早くから真田家に仕えていました。
幸村と歳も近く姿形も似ていたため「影武者」としての仕事が多く、影武者の中のリーダー的な立ち位置です。幸村の命令は忠実にこなし、最期の戦いとなった大坂夏の陣でも影武者として壮絶な戦死を遂げています。
モデルは、穴山小助(あなやまこすけ:武田家家臣、穴山信光の長男)と言われていますが、父である穴山信光(あなやまのぶみつ)の存在自体が疑問視されているため、穴山小助も架空の存在なのではないかという説が現在は有力になっています。
由利鎌之助(ゆりかまのすけ)
槍の名人であった由利鎌之助は、最初は敵方の武将の臣下でした。鎖鎌の名手という設定はなく、後世の人が名前から連想して創作されたのでしょう。幸村の家臣をあっさり2人倒してしまうほどの腕の持ち主でしたが、穴山小助に敗北し幸村の家臣となるのです。落とし穴に落とされて説得されたとの説も。
関ケ原の戦いの後幸村に同行せず、江戸で道場を開きます。しかし、道場を開いたのは江戸情勢の探りのためで、幸村の指示でした。幸村からの信頼は厚く、以後重要な作戦にはいつも顔を出しています。大坂冬の陣で徳川家康を追いつめますが、その後の消息は不明です。討ち死にしたとも、幸村とともに薩摩に落ちたとも。
由利鎌之介のモデルは、実在した真田家家臣の由利鎌之介(ゆりかまのすけ)と言われています。大坂夏の陣図にも描かれています。しかし近年は、存在自体が架空の人物なのではという説が有力になっています。
まとめ
前編は真田十勇士の説明と、十勇士の5人の人物像やモデルについて紹介しました。真田幸村の盾となり鉾となって活躍した十勇士について、今まで知らなかった方にも興味を持っていただけたら幸いです。後編では、残り5名の人物像やモデルについて紹介します。