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戦国時代の義将・石田三成が「大一大万大吉」に込めたその意味とは?

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三成のオリジナルではなかった?

そんな大一大万大吉ですが、実は三成のオリジナルではなく、平安末期の武士・石田次郎為久(いしだの じろうためひさ)らも使っていたと言われています。

相模国大住郡糟屋荘石田郷(現:神奈川県伊勢原市)に所領があったため石田の名字を称しました。

源頼朝(みなもとの よりとも)公に仕えた三浦(みうら)一族の一人で、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場する13人の一人・三浦義澄(よしずみ)の従甥(いとこおい)に当たります。

時は寿永3年(1184年)、粟津の合戦で敵の総大将・木曾義仲(きその よしなか。源義仲)を射倒し、その首級を上げた(実際に上げたのは彼の郎党)武将として有名ですね。

一説には三成の祖先?とも言われていますが、為久が大一大万大吉の旗印を用いていたという伝承ともども、ハッキリしたことは判っていません(そもそも源平合戦の時代に旗印を用いる習慣が普及していたのか?という疑問もあります)。

終わりに

「みんなが一人のために、ひとり一人がみんなのために」

奮闘むなしく家康の前に敗れ去ってしまった三成。古来「勝てば官軍、負ければ賊軍」とは言うものの、敗れたからと言ってそのすべてが否定されるべきではありません。

どこまでも公正な社会を求め続けた三成の理想は、今なおその価値を失うことなく、現代に生きる私たちもまた求め続けていきたいものです。

※参考文献:
永山久夫『武将メシ 戦国十九武将の”勝負メシ”を忠実に再現』宝島社、2013年3月
三池純正『義に生きたもう一人の武将 石田三成』宮帯出版社、2009年6月
歴史群像シリーズ『豪壮秀吉軍団―天下に雄飛した精鋭列伝』学研、1992年1月

 

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