意外と文武両道だった?軟弱なイメージの今川氏真、実は剣術の心得もあった
弱肉強食の戦国時代、由緒正しき名門というだけでは生き残れず、多くの大名家が滅び去っていきました。
「負けに不思議の負けなし」とはよく言ったもので、負けるからには必ず原因があるものですが、それは往々にしてリーダーの資質、ここでは「大名が無能だったせいだ」と安直に片づけられてしまいがちです。
守護大名として駿河・遠江・三河の三ヶ国(現:静岡県東部~愛知県西部)を支配しながら、一代で失ってしまった今川氏真(いまがわ うじざね)は、桶狭間の合戦で「油断して」討ち取られてしまった「公家かぶれ」の父・今川義元(よしもと)ともども軟弱なイメージがついてしまっています。
近年の研究(と言うより、そもそもの記録など)から義元の名誉は回復されつつあるものの、御家を滅ぼして(大名としての地位を失って)しまった氏真については、どうしても「ボンクラ息子」のイメージが根強い印象です。
しかし、敗れた者が必ずしも無能だったとは限りません。今回は、そんな今川氏真の文武両道エピソードを紹介したいと思います。
剣豪・塚原卜伝に鹿島新当流剣術を学ぶ
今川氏真が和歌や蹴鞠など、主として文化方面に通じていたことは有名で、そのことも父同様の「公家かぶれ」イメージに一役買っているのでしょう。
ただし、それは武芸に疎いことと必ずしもイコールではなく、氏真は剣豪・塚原卜伝(つかはら ぼくでん)から鹿島新当流(かしましんとうりゅう)剣術の手ほどきを受けていたそうです。
もちろん、学んだことがあるからと言って奥義を究めたとは限らず、単なる旦那芸(※)や、あるいはただ卜伝の演武を観覧しただけ……という可能性も否定はできません。
(※)スポンサーに取り入るため、指導や採点を甘くして与えられた免許・技能など。
また一説には、剣術を極めて今川越前守義真(えちぜんのかみ よしざね)と名前を変え、新たな流派「今川流」剣術を興したとも言われますが、この人物は今川氏の庶流(分家)ですから、嫡流(本家)の氏真とは別人物のようです。
「ぜぇ、はぁ……なんでワシまで剣術など……」
「いけませんぞ、若。高貴なご身分なればこそ、ご自身を守るすべも学ばれませぬと……」
「そうは言うても越前よ、ワシは、ワシはもうダメじゃ……」
「……仕方ありませんな。今日のところは甘めにして、あと素振り千回と致しましょう」
「どこが甘めなんじゃあ~、ひぇぇ……」
この義真は生没年不詳であり、また今川流と鹿島新当流との関係も不明のため、ハッキリとは言えませんが、もしかしたら氏真と一緒に卜伝の指導を受けていたのかも知れませんね。
2ページ目 優秀さが必ずしも成功に結びつかないのが、人間社会の不条理