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俺たちは用済みか!明治維新後、リストラされた奇兵隊や長州志士たちの叛乱「脱隊騒動」

俺たちは用済みか!明治維新後、リストラされた奇兵隊や長州志士たちの叛乱「脱隊騒動」:3ページ目

激戦の末に敗北

事態の解決を図るため、明治政府は東京に来ていた木戸孝允(きど たかよし。桂小五郎)を山口へ帰郷させ、改めて討伐軍約800名を再編させました。

「数でこそ劣るがこちらは少数精鋭、むしろ農民どもを掻き集めた脱隊軍は統制がとれず、たやすく翻弄できるだろう」

明治3年(1870年)2月9日から11日にかけて山口藩軍と脱隊軍が激突、小郡(おごおり。現:山口県山口市)や三田尻(みたじり。現:山口県防府市)など各地で一進一退の攻防戦を繰り広げた結果、山口藩軍が勝利を収めます。

「もはやこれまでか……!」

敗戦の中で藤山佐熊は討死、富永有隣は再起を期して逃亡し、長島義輔は残党をとりまとめて降伏。3月18日に斬首され、5月6日までに首謀者35名が処刑されました。

この脱隊騒動における一連の死傷者は脱隊軍が133名(死者60、負傷73)、討伐軍84名(死者20、負傷64)、脱隊軍のうち平民出身者約1,300名については帰郷が許されたと言います。

また、訴えにより四境戦争から明治維新における功労が認められた600名(※叛乱に加担していない者も含む)については、ようやく一人半扶持(米で2石7斗/年相当)が与えられたのでした。

せめてもの報いと言えなくもありませんが、誰もが命がけで戦ったのに、いい思いができるのはほんの一握り……今も昔も変わらない構図を変える「大義」を前に、また多くの者たちが血と汗と涙を流すのでしょうか。

※参考文献:
一坂太郎『長州奇兵隊 勝者のなかの敗者たち』中公新書、2002年10月

 

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