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日本一小さな大名?徳川家康さえ一目置いた、喜連川藩の歴史を紹介!

日本一小さな大名?徳川家康さえ一目置いた、喜連川藩の歴史を紹介!

かつて武家の棟梁として室町幕府を開き、その初代将軍として天下に号令した源氏の名門・足利尊氏(あしかが たかうじ)。

しかし時は流れ、第15代将軍・足利義昭(よしあき)が織田信長(おだ のぶなが)によって京都を追われると、幕府は滅亡してしまいます。

これで足利氏も歴史の表舞台から姿を消してしまった……と思われがちですが、武士の世が終わりを告げる明治維新まで大名として存続した家がありました。

今回はそんな喜連川(きつれがわ)藩のエピソードを紹介したいと思います。

尊氏の次男・足利基氏の末裔

喜連川は足利一族の故地として知られる下野国塩谷郡(現:栃木県さくら市)にあり、足利尊氏の次男・足利基氏(もとうじ)の末裔である足利国朝(くにとも)が、時の天下人である豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)から400貫(3,500石)の所領を与えられた(※)のが始まりです。

(※)元の所領であった下総国千葉郡小弓城(現:千葉県千葉市)からの転封となります。

文禄2年(1593年)、国朝が朝鮮出兵(文禄の役)の道中に病死すると、その弟である足利頼氏(よりうじ)が家督を継承。

やがて秀吉が亡くなって慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原合戦では西軍にも東軍にもつきませんでしたが、勝利した徳川家康(とくがわ いえやす)にお祝いの使者を派遣したことを評価され、論功行賞によって慶長7年(1602年)に1,000石を加増されました。

「源氏長者(げんじちょうじゃ。源氏の棟梁)となった以上は、かつての長者に失礼はできませぬ」

慶長8年(1603年)に征夷大将軍=源氏の棟梁として江戸幕府を開いた家康は、足利の家柄を尊重して幕藩体制(※幕府と諸藩の主従関係)の例外として認めます。

「徳川様より身に余るご配慮、恐縮にはございますが、天下の秩序を保つためとあらば、謹んでお受け致しまする」

とは言え、徳川家に対して遠慮があったのか、苗字を足利から地名の喜連川に改めた頼氏は、石高は4,500石のまま大名並みの待遇で喜連川藩の初代藩主となったのでした。

めでたしめでたし……なのですが、あの家康が(現代よりも道理や筋目を重んじる時代だったとは言え)家柄だけを尊重したとは考えにくいと感じるのは筆者だけではない筈です。

前の棟梁を重んじることで、言わば「禅譲(ぜんじょう。徳ある者に天下を譲る理想的な政権交代)」を演出したとも、あるいは「いつか徳川の世が終わった時、子孫たちも重んじられるように」などと願ったのかも知れませんね。

源氏の末裔を自称していた家康にとって、源氏でない織田も豊臣もいっとき天下を乗っ取ったならず者に過ぎず、あくまでも「足利⇒徳川」という世の流れを強調したかったのでしょう。

2ページ目 日本一小さな大名家?喜連川藩の特権と苦労

 

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