「日本を今一度、洗濯いたし申し候」-坂本龍馬(さかもと りょうま)
時は幕末、硬直した武家社会から脱却し、日本という近代国家を生みだそうと多くの志士たちが脱藩(だっぱん)。故郷を飛び出して日本全国を駆け巡り、そして世界へと雄飛して行きました。
有名なところでは冒頭の坂本龍馬や吉田松陰(よしだ しょういん)、高杉晋作(たかすぎ しんさく)など、旧来のしがらみを乗り越えた意志と行動力は、少なからず明治維新の原動力となったようです。
それにしても、脱藩と言うと「志(あるいは諸事情)のためにすべてを捨て、時に命を失うリスクをも冒す」大それた行為であるようなイメージですが、実のところ必ずしもそうではありませんでした。
現代よりも忠節や義理にやかましく、その関係から脱するハードルは高かったように思われがちですが、どういう事情があったのでしょうか。
(※)ちなみに、大名家を「藩」と呼ぶ概念が一般的になったのは明治時代以降と言われ、江戸時代以前に生きていた彼ら当事者が「脱藩」という言葉を使ってはいませんでしたが、ここでは歴史用語として便宜上用いています。
わざわざ脱藩しなくても……
結論から言えば、武士が主君との雇用関係を解消し、浪人となることは基本的に自由でした。
もちろん、いきなりいなくなられては流石に困るので、現代の会社員と同じく、所定の手続きを経てから辞めるのですが、いつ戦闘の人手が必要になるか分からない戦国乱世ならいざ知らず、太平の世が永く続いた江戸時代中期以降になると、よほど優秀な人材でなければ、主君としても「むしろ、いなくなってくれた方が(養う人数=経済的負担が減って)ありがたい」という台所事情があったのです。
そんな状況ですから、わざわざリスクを冒して脱藩などしなくても、然るべき筋を通してきちんと退職の意思を表明すれば、多くの場合が円満退社、もとい浪人となることが出来ました。
(逆に、多くの武士たちは「いつ自分がリストラの対象にされはしないか」など戦々恐々だったとも)
中にはよほど優秀だったり、影響力が大きすぎて連鎖退職のリスクが懸念されたり、あるいは重要機密を知っていたりする者などについては、上から引き止められたでしょうが、それでも自由の身になりたいものは、初めて脱藩という強硬手段をとることになります。